先日のある新聞にこんなことが書いてありました。
日本人は
「皆が何となく生きて、何となく死んでいる」
「死と向き合っていないから、過剰な延命治療を最善と思い込む」
しかし、昔の日本人はしっかりした死生観を持っていたと思います。
最近、居合の事を突き詰めて考えるとまずは自身の覚悟を定めることが基本なのではないかと思うようになりました。
相手と対峙する前にまず自身ととことん向き合うこと。
「武士道といふは死ぬ事とみつけたり」
有名な「葉隠」の言葉です。
残念なのはこの言葉が誤って伝えられた時期があったこと。
勿論、武士道は決して死ぬことをすすめているわけではありません。
相手の気を見抜いて、間合を感じとるためには一度自身が「死ぬこと」が必要になるということではないかと。
「死ぬ」ための稽古。
そう考えると間合とは物理的な距離ではなく、自身と相手の覚悟で変わるもの。
これは居合だけでなく、普段の人との「間合」にも通じるものかと思います。
昔の侍が座禅に取り組む必要があったのは頷けます。
よく死ぬことはよく生きること。
今日参列した告別式の帰りにいろいろなことを考えてしまいました。