久しぶりに坐禅会に行ってきました。
私の通う坐禅会では坐禅に資する本の輪読会もやってます。
今は藤田一照さんの「禅の教室」です。
中公新書から出てますので、興味のある方はどうぞ。
*ちなみに私の通う坐禅会は臨済宗ですが、藤田さんは曹洞宗です。
輪読会では坐禅に資すれば宗派は問いません。
さて、その輪読会で以下の箇所に目が釘付けになりました。
長いですが、以下に本からのその箇所の抜粋を書きます。
<概略抜粋>
(藤田一照さんの)「坐禅会」ではそこの指導者が、既に最終的な答えを持っていてそれをみんなに教える、というのではなく、みんなと一緒になって「実験」をしながら坐禅を深く研究していく、そういう集まりを目指している。
この坐禅会では、坐禅を志した人にいきなり「坐禅の完成型はこれですよ。はい。やって。」といって足を組ませるのではなく、まずは「体」と「こころ」をほぐして、自分から坐りたくなるような条件を整えるところから入る。そのような流れが生まれるようにいろいろ実験的に試みている。
道元禅師のいう「正身端座」は胸を張ったり、筋肉を緊張させて見せかけだけを作り、無理やり「そのものにもっていこう」とするというものではない。そこで自然に「正身端座」に入っていけるように稽古する。体の軸やバランスが調うようにするとこころもリラックスできる。
アメリカのおもちゃで「ホバーマン・スフィア」というのがあるが、このおもちゃの動きが、この坐る前の「体とこころのほぐし」のイメージをよく表している。このおもちゃはどこか一ヶ所を力を入れずに軽く引っ張る、すると残りの全てが一斉に連動して動く。ということは一ヶ所がスムーズに動くためには他の全部が同時に動かないとダメ。また反対にほんの一ヶ所、紐などで固定してちょっと固定して拘束するだけで、他の部分をいくら引っ張っても動かなくなる。これはこころの有り様と一緒で、どこかこころにわだかまりなりトラウマがあるとこころそのものが「スムーズに動かなくなる」というのと一緒だ。
体の各部分を動かすということは、体幹を軸としてそれと連動して動くということ。
「坐禅は静止しているのではない」
坐禅中は体の各部の小さな筋肉が微細な運動をしている。楽に坐るという運動というか、あるいは静かに止まるという運動をしているとも言える。
長くて申し訳ありません。
私にはこの個所は「坐禅」を「居合」に「坐禅会」を「静稽会」に置き換えても違和感はありません。