「居合は動禅である」を検証するために坐禅を始めて2年半が経ちました。
まだまだ「迷いの森」を彷徨っている状態です。
私もそうでしたが、坐禅には世間の誤解があります。
例えば次のようなものです。
「坐禅は悟りを開くのが目的だ」
さらに私も昨年の大晦日の静稽録にこんなことを書いてました。
「坐禅は一旦考えることを遮断してただただひたすら感じること」
なのではないか?そういう意味だとすれば居合が動禅というのも頷けます。」
今はその半年前の自分の言葉に同感できません。
坐禅も居合もそんなものではないと思っています。
昨年の6月にマインドフルネスについてこの静稽録に書きました。
マインドフルネスは坐禅とどう違うのか?
日本では剣豪と言われる人たちは剣術修行と同時に坐禅と取り組むケースが多多かったようです。(現代ではどうなんでしょうか?現代に剣豪はいない?)
おそらく命のやり取りをする昔の剣豪に必要なのはマインドフルネスではなく坐禅なのだと思います。
マインドフルネスは心の動きを停止する技法と言えます。瞑想も近いかもしれません。それだけでは満たされない何かが坐禅にはあるからこそ、剣豪と言われる人たちは参禅したのだと思います。
昔はマインドフルネスなんて無かった?
あってもきっと坐禅を選択していたと思います。
かの無外流流祖の辻月丹は「更に参ぜよ30年」と言ってます。
この「更に参ぜよ30年」は禅の古典である碧眼録に書いてある言葉ですが、
30年は長い!しかも「更に」ですから。
私はあと30年参ずることが出来るか?
要は一生参ぜよ(修行せよ)ということですね。坐禅も居合も。