ラオウの美学

今回は漫画やアニメに興味のない方には分かりにくいかもしれません。

ごめんなさい(^_^;)


先日、NHKでラオウを特集する番組がありました。そうです。あの「北斗の拳」のラオウです。


ヒーローの影で独特の存在感を放つ脇役=セカンドの美学に迫る番組でした。

こういうの結構好きです^_^


ある人気投票ではラオウは主人公のケンシロウを凌いで1位を獲得しているそうです。知らない人のために言い添えますと、ラオウは北斗神拳同門の義弟ケンシロウに負けて最期を迎えます。


稀勢の里引退時の「私の土俵人生において一片の悔いもございません」というコメントはラオウの最期の言葉「わが生涯に一片の悔いなし!!」をオマージュした言葉です。そう言えば、稀勢の里の化粧まわしはラオウの刺繍でしたねえ。よっぽど好きだったんでしょう。


「あしたのジョー」の力石徹も人気がありました。(私はどちらかといえばこちらに近い年代です)

その力石徹が漫画の中で死んだ時には実際に葬式が行われたほど人気でした。葬儀では、かの寺山修司がテンカウントの後、「力石徹よ 君はあしたのジョーのあしたであり……」と、弔辞を読みました。


話を戻します。


そのラオウの美学とは何か?
何故、ラオウはそれほど人を惹きつけるのか?


原作者の武論尊さんは、番組の中でこんなことを言ってました。


「死にざまにその人の美学が出るから、人がどう死ぬかにこだわっていたし、ラオウの死にざまに彼の美学が出ている」

 

「負けにも美しい負けがある」

 

長く生きているとそうそう勝ってばかりではありません。どちらかといえば人生負けることの方が多いのではないでしょうか。でも負け方にも美学があるはずです。どう負けるのかは大事です。


「武士道と言うは、死ぬことと見つけたり」とは「葉隠」の言葉です。
人間いつかは誰もが死にます。「葉隠」はそれを前提として生きているか、いないかの問題提起だと思っています。

 

坐禅でも座布団の上で死ね!などと言われます。
死を覚悟出来れば、生きていく上で「結果」はさほど問題ではなくなるでしょう。問題なのは、どうやったかに行きつくはずです。


「結果」にばかりこだわると見失うものもあります。