稽古をしていると半足内側にするか外側にするかで見える「風景」が全く違うことに気がついたりします。
利休は茶碗の置く位置が畳の目一つ違っただけで茶室の「風景」が変わると言ったそうですが、一つの状況下で茶碗の置く位置はたった一つしかなく、そこ以外は全て不可になるという感覚はわかるような気がします。
翡縁会の多々良先生がご自身のブログの中で「必然性のある太刀筋」(11月15日)という言葉を使っていました。その言葉がピタッと私の感覚にハマったような気がして思わず多々良先生にメールしてしまいました。
その太刀筋がどんなものかは私にはわかりませんが、その太刀筋はきっと「美」であるだろうと確信し先生にそうメールしました。さらにメールを送った後でそれは「素」でもあるはずだとも思いましたが、これ以上は先生を困らせるかもしれないとメールするのを思い止まりました(笑)
そして多分その太刀筋を見つけた時には「楽」、「快」でもあるのでは・・・
先生の言うところの「何者でもない自分」に戻ることが出来るかも知れません。
同じ「風景」でも違った「風景」にも見えるというのは楽しいことです。
<多々良先生のブログ>