「教わると学ぶは違う」
藤井聡太新棋聖の師匠である杉本昌隆八段の言葉です。
杉本八段は弟子の受け入れ条件をいくつか挙げてますが、その一つに「月謝を取らない」があるそうです。
月謝を取ってしまうと「教える立場」と「教わる立場」に分かれてしまうのでよろしくないと言うのです。
「教わる」のではなく一緒に「学ぶ」というスタンスが大切だと。
以前、この静稽録で吉田松陰のことを書きました。
以下は2018年5月5日の静稽録からの抜粋です。
「5月3日の日経新聞「春秋」にこんなことが書いてありました。
「幕末、吉田松陰の松下村塾に2人の若者が入門したときのことだ。「謹んでご教授をお願いいたします」と言われた松陰は、こう返したという。「教え授けることはできません。君らとともに学んでいきましょう」
常に自らを未熟として、さらに学びたいと思い続けた松陰は本気で門人とともに学びたいと思っていたのだと思います。」
静稽会も同じスタンスでありたいと願っています。
もちろん稽古場では教える人と教わる人はいます。ただ静稽会では誰かが一方的に教えて、誰かが一方的に教わるということはありません。
「こんな経験をした」「こんな本を読んだ」「こんな動画を見た」「ある先生にこんなことを教えてもらった」など、意欲が有ればどんなことでも必ず手立てはあるはずです。
誰でもあらゆることを出し合い、やってみて、議論して、検証して、またやってみることが出来ます。会の中で分からないことがあれば会を離れて教えを請います。年が上であろうと下であろうと武術の経験年数も関係ありません。
坂本龍馬は西郷隆盛を鐘にたとえ評して
小さく叩けば小さく響き
大きく叩けば大きく響く
と言ったそうですが、どんな素晴らしい師についたとしても、その師に対して大きく叩けるか、また大きく響き合えるかは結局、自分自身の問題なのだと思います。
後に坂本龍馬は西郷という鐘を突く自分の鐘木が小さかったのが残念であったと悔やんだそうです。