私の大好きな落語家の一人に柳家小三治という落語家がいます。
最近、柳家小三治の自伝「どこからお話ししましょうか」を読みました。
その自伝の中で名人小三治はこんなことを言ってます。
「ネタをおぼえるのは、ほんとうに大変でした。私と同期生で、小さんのところに入門したほかの二人は、三日あればひとつの噺をおぼえられるって豪語してました。私はひと月たってもふた月たってもおぼえられない。おぼえるときも、稽古しないんじゃあない、練習してるんですけど、頭に入らない。先へ行かないんです。-中略- ほんとに三歩進んで二歩下がっちゃう。水前寺清子の歌みたいになっちゃうんですよ」
私も歳と共に覚えることに時間がかかるようになってきました。あんな名人がそんなことを言っているのを聞くと少し安心します。
ではどうやって覚えているのか?
「言葉でおぼえるっていうより、了見でおぼえていく」
「了見でおぼえる」というのはどういうことなんでしょうか?
「登場人物の気持ちになって、その人の発言としておぼえていく方法を取るようになった。それが結局は私の、小三治の基本の「き」なんじゃあないんですか。」
でもこれって厄介だと小三治も言ってます。
「登場人物の心持ちに沿えないとせりふが出てこないんです。」
なるほど。
しかしまた小三治は別のエピソードでこんな事も書いてます。
音楽之友社の「週刊FM」という雑誌で森山良子さんと対談した時に、編集者の方から森山さんにこんなこと聞いてほしいと言われたそうです。
「あんなに歌をうまく歌う必要があるんですか?」
この言葉はいわゆる遠回しのヨイショではありません。そのままの意味です。この言葉は小三治の人生や落語に大きな影響を与えたそうです。
その編集者は「ほんとうにうまいのが、逆に嘘っぽいと思った。うまく歌うことで、歌の持っている心が隠れてしまう」と言ったそうです。
そんな訳でクラッシック好きな小三治にかかると「楽団の帝王」と言われたカラヤンも全否定です(笑)
最近、会員のOさんと他流の剣術形を稽古する機会が増えました。私同様にOさんも歳と共に覚える速度が遅くなってきました。
そんな二人が稽古しているわけですから、なかなか遅々として進みません。
しかしOさんの剣には使太刀の「心持ち」が強く反映されます。Oさんの形は決して綺麗ではないですが、妙な迫力があります。
2019年6月26日の静稽録「指月の譬」に書いた「emotional content」をOさんは持っているのではないかと感じながら打太刀をつとめています。
確かにうまくやろうとすると形は形骸化してつまらないものになります。
小三治はこうも書いてます。
「なにも考えがなくてきれいにやってるやつを、私はいいと思わない。落語を聞いてても、そう思うんです」
そう言えばOさんはどことなく雰囲気が小三治に似ています。