ある方のブログで峰隆一郎作「土方歳三」(1) 試斬 が紹介されていたので読んでみました。
作中ではまあ土方歳三がモテることモテること。次から次とお相手が現れます。
実際に土方歳三はモテたようですが、このことには特にここでは触れません。
それはさておき、随所に「斬る」ことについての作者の想いが盛り込まれています。作中では土方歳三が辻斬りまがいのことをしながら「斬る」ことを習得していきます。そして竹刀稽古や木刀稽古では斬れないと言い放ちます。もちろん内容はフィクションですが、「斬る」ことに対する想いは作者の本音だと思います。
峰隆一郎はあとがきでこんなことを書いています。
「江戸後期の剣術道場において、その流祖、道場主たちの中で、殺法と言った人は一人もいなかったと思う。ただ、中西道場の高柳又四郎だけは、人を斬るための稽古をしていた。竹刀稽古をしていても、決して竹刀に音を立てさせなかった。刀は受け払いすれば折れると、頭に置いていた」
ゆえに高柳又四郎の剣は「音無しの剣」と言われたそうです。
さらに
「伊藤一刀斎は門弟の小野次郎左衛門に、斬り覚えよ、と言った。塚原卜伝は、鹿島神道流にあき足らずに、人斬りの旅に出た。これが新当流である。天然理心流の、流祖、近藤内蔵助はこの新当流であったという。すると、天然理心流が殺法であったのは当然のことだ。-中略-剣は禅でも哲学でもない。まして宗教でもない。ただ、殺法だけである。」
これに対するご意見はいろいろあるかと思いますが、剣は「道」を説く前に「殺法」であるということは心にとどめておかなければならないと思っています。
峰隆一郎はこの作品を執筆中に亡くなったそうです。よってこの遺作は未完ということになります。