1877年 西南戦争「田原坂の戦い」は急峻な地形で起伏も多かったことから、銃砲では決着がつかず、日本刀による斬り込みによって雌雄が決したと言われています。
その「田原坂の戦い」という日本刀による実戦の場で活躍した武士がいました。
政府軍抜刀隊で直神影流の隈元実道です。
彼は後に隈元振気流として「武道教範」という本を書いてます。
文体が古くかつ印刷が潰れて読みにくいですが、頑張って読んでみました。
ちなみにこの本は国立国会図書館でデジタル化されていますので、誰でも読むことが可能です。
この中で当時も主流だったと考えられるいわゆる「剣道打ち」を厳しく批判してます。
*文中の「彼の俗流」とはいわゆる「剣道打ち」のことです。
「彼の俗流は、双手の諸々爪を上に向け、竹刀は面布団の上に擦り込む、是れ華法と云うへし。否な戯れと謂うへし。-中略- 俗流の華法に陥り、真剣の使用法に戻る、注意せずんばあらざるなり。」
さらに
「體に根ざさず、體を働らかさず、チョッチョッと手先き計りにて、撃ち突きするが故に、體と太刀と離れ離れになりて、小技に流れ易し」
また竹刀の柄は真剣のそれに比べて長すぎることを指摘し、
「長柄竹刀に熟すれば、熟する程に、真剣に遠ざかるを認む」
板の間のすり足、手首のスナップを効かせての技は柄が長いから出来る技であり、小石、雑草のある地面での戦いはすり足では戦えないと言ってます。
「若し彼の板間裡客の如く、チョッチョッ小手掠め撃ちする技術を習慣せば、真剣に臨み、敵を激発せしめて、却て我れは敵に一刀両断せらるるや」
道場(竹刀)剣道は「打つ」動作であり、「斬る」動作ではないと言い切ります。
そして「真剣は防禦小技になり易し」として、
「故に我が鍔拳にて、敵の頭まを打割ると覚悟して、深く踏み込みたるとき、漸く我が切っ先、敵の眉間に達せんとす。是れ即ち、真剣は切り先き三寸許にて、斬るべきものなるに、拳鍔にて撃て、と云う教ある所以なり。-中略- 敵に皮を切られて、我れは骨を切ると云ふ。術語は決心激発を云うものなり。」
日本刀を使っての実戦に参加した人の貴重な教えです。