「武」という漢字は戈(ほこ)と止(とめる)という漢字の合体だと言われます。
これは「春秋左氏伝」という中国の古典「春秋」の解説書の中の話が元になっているそうです。
幕末に「力の斎藤」と言われた三大道場の一つ練兵館の斎藤弥九郎は生涯一度も刀を抜かなかったそうです。余談ですが、先の「剣術修行の旅日記」の牟田文之助はこの斎藤弥九郎の長男斎藤新太郎と立ち合っています。
そしてその斎藤弥九郎の神道無念流演劔場壁書には
「武は戈を止むるの義なれば少しも争心あるべからず」
と書いてあったそうです。
幕末騒乱の時代にあってはなかなか重い言葉です。
しかし実はこの「武」という漢字ですが、その後に漢字の研究が進むと「止」が足の象形であることがわかり、「とまる」という意味の他に「すすむ」という意味もあることがわかってきました。そんな訳で「武」は今では「戈を持って進む」と解釈されているそうです。
武術は元々は人殺しの「術」です。殺人術がそんなに簡単に「道」にはなりません。
斎藤弥九郎は入塾心得方に「昼夜文武出精」と書いたそうです。稽古だけではなく、学問、特に素読に時間を割いたと言われています。とにかく本を読めと。
そして出稽古にも熱心だったようです。出稽古は他流との立ち合いによる武術向上のほか、幕末には学問交流そして議論の場だったことは「剣術修行の旅日記」からも想像がつきます。
やはり斎藤弥九郎はただ武術のみやっていたのでは「道」には辿りつかないことを知っていたのだと思います。
「術」が「道」になるためには稽古だけではなく素読や人との交流が必要なのは昔も今も変わらないということです。
斎藤弥九郎は晩年にこう揮毫したそうです。
「慎独」(独り慎む)
「慎独」は中国の古典「大学」に書かれている「君子必慎其独也 (君子は必ず其の独りを慎むなり) 」から来た言葉で、自分一人の時でも行いを慎み、道をはずれないようにすることだそうです。
斎藤弥九郎が書くと重さが伝わってきます。