日常の大半は視覚に頼って生きていると言っても過言ではありません。
「見えない体」になるとはどういうことなのでしょうか?
光文社新書の伊藤亜紗著「目の見えない人は世界をどう見ているのか?」という本を読んで見えない人の世界が少しだけ近く感じられました。
見える人が「見えない体」になるのは簡単ではないと伊藤亜紗氏は言います。
目をつぶれば良いと思った人、それは大きな誤解です。
見えないことと視界を遮ることとは全く違うということを知りました。
伊藤亜紗氏はこう言います。
「見える人が目をつぶるのは、単なる視覚情報の遮断です。つまり、引き算。そこで感じられるのは欠如です。しかし私がとらえたいのは、「見えている状態を基準として、そこから視覚情報を引いた状態」ではありません。-中略-
それは四本脚の椅子と三本脚の椅子の違いのようなものです。もともと脚が四本ある椅子から一本取ってしまったら、その椅子は傾いてしまいます。壊れた不完全な椅子です。でもそもそも三本の脚で立っている椅子もある。脚の配置を変えれば、三本でも立てるのです。」
伊藤亜紗氏は脚三本の椅子が作り出すバランスを含めた「全体」を感じることを求めています。それを感じるということは同じ世界でも見え方、すなわち「意味」が違ってくるのだと。見えない人はその「意味」の世界に生きているというわけです。
「情報」ではなく「意味」というところがポイントです。
伊藤亜紗氏は視覚は三次元を二次元化してしまいやすいと言います。
視覚の大きな特徴のひとつで「奥行きのあるもの」を「平面イメージ」に変換してしまいやすいという指摘には思い当たるところがあります。
居合などでは水平斬りをよく「横一文字」などと表現しますが、これは紙の上に書く平面イメージの表現です。水平斬りを真上や横から見れば全く違うものになります。さらに歩を進めながら行えばまた形は変わります。
「横一文字」が作り出す「平面イメージ」が特に初心者の斬りの動きにかなりの影響を与えているのではないかと感じたことがあります。
そんなこともあって斬りは三次元的に捉えることが必要だとこの静稽録にも書きました。
同じ空間でも視点をどこに置くかで見え方は全く異なります。
そして見える人には必ず「死角」がありますが、見えない人には「視覚」がないからこそ「死角」はなくなります。さらに表と裏、内と外が等価になることで、視点に縛られない新しい世界に生きているのだと知りました。
武術的発想にも影響を与える興味をそそられる本です。