この静稽録で何回か「昔はダンサーになりたかった」という話は書いたかと思います。なりたかったのは舞踏ダンサーです。
大学生の頃に舞踏という踊りのジャンルがあることを初めて知りました。クラッシックバレエや日本舞踊しか知らなかった私にとって舞踏の世界はかなり衝撃的でした。
一度見たら二度と忘れられないというのはこういうことか・・・
若いころに受けた衝撃は一生消えずにその後の生き方に影響を与えます。
「舞踏は自らの存在を確認し、同時に証明すること」だと言った人がいました。もしかしたら今も違った形で確認、証明しようとしているのかも知れません。
残念ながら私が舞踏に出会った時にはすでに暗黒舞踏の創始者土方巽は亡くなっていましたが、彼に師事した方々の舞踏を見て、本を読み、目黒にあるアスベスト館(舞踏のワークショップ)に足を運びました。
自分もあんな動きが出来たら・・・
あのオーラを纏うことができたら・・・
あれからウン十年(笑)
先日、本を片付けていたら舞踏関連の本がワンサカ出てきました。
読みかえしてみると土方巽の言葉や土方巽に師事した方々の言葉がいちいち今の私に響いてきます。
<土方巽の言葉>
「舞踏とは命がけで突っ立った死体である」
「舞踏とは、はぐれてしまった自分の体と再び出会うことである」
「飼いならされた体ばかりで生きてきて、お前はずいぶんひどい目にあったのじゃないか」
「世界の踊りは立つ所から始めている。しかし暗黒舞踏は立とうにも立てない所から始めた。その原因は深いですよ」
その他の人の言葉の中にも魂が震えるような言葉が溢れていました。
「舞踊は踏むことだ」
「メソッドの中心は背骨のテンション(緊張)とリリース(解放)だ。リリースと言っても脱力とは違い、常にある緊張感は保持して身体を制御する」
「(舞踏の歩行は)腰を落とし、膝を緩め、静かに丁寧に床に触れて歩くのが基本」
「吊られているイメージ」
「重力との対話」
「視線は焦点をあてずに気配を全体性の中で捉える半眼とする。その上でダンサーは自らが「背」にしている「空間」を体全体で配慮しながら歩く」
なんだか「舞踏」が「武術」に見えてきます。
もしかしたら同じものを求めているのかも知れません。