1797年(寛政9年)に発行された太田全斎著の俚言集覧(りげんしゅうらん)という書物の中にこんなことが書いてあるそうです。
「凡、人五十歳ばかりの時、手腕、関節痛むことあり、程過ぎれば薬せずして癒ゆるものなり、俗にこれを五十腕とも五十肩ともいう」
先日、会社の元同僚Mさんと話をする機会があり、お互いの近況を伝え合いました。
その際にどうもMさんの動きがおかしいので、どうしたのかと聞くと、五十肩で一年近く病院に通っていて、これでもだいぶ良くなったとのこと。
「いやいやもう六十肩でしょ」と返しましたが、そう言えば四十肩、五十肩は聞くのに六十肩はあまり聞かないのは何故なんだろう?と思ったり、治療にそんなに時間がかかるものなのか?とビックリしました。
幸いにも私は四十肩、五十肩、六十肩にもなっていませんが、結構辛いらしく肩の可動範囲がかなり制限されるので日常生活や運動にも大きな影響が出るそうです。しかも一年近くも。
Mさんは「老化が進むといろんな箇所の可動範囲が狭くなる。でも本当にこわいのは狭くなった可動範囲が当たり前になってしまって、その可動範囲内でしか生活や運動をしなくなってしまう自分がいることだ」と言ってました。
「身体は自然体にしておくとどんどん動かなくなるという当たり前のことを深く自覚した。そのことが当たり前になってしまう感覚が本当におそろしい」としみじみ語っていました。
もしかしたら六十肩というのをあまり聞かないのは、元々あった可動範囲を無自覚に諦めた結果なのではないかと思ったりします。
俚言集覧の「程過ぎれば薬せずして癒ゆるものなり」の意味を深く考えてみる必要がありそうです。
ちなみに静稽会では〇〇肩の話を聞きません。やはり刀を振り上げている成果なんでしょうか。