居合はやろうと思えば一人でも出来ます。ではなぜ集まって居合を稽古するのでしょうか?
坐禅も一人で出来ます。場所を選ばないで出来ると言う点では居合よりも簡単に一人で出来ます。それでも多くの坐禅会があり、みんな集まって坐禅を組んでいます。
何故なんでしょうか?
指導者がいるから?
もちろんそれもあるでしょう。
でも果たしてそれだけの理由でしょうか?
居合でも坐禅でも長いことやっている方は分かってくれると思いますが、一人でやる時とみんなで一緒にやる時とは感覚が随分と違います。
何が違うのでしょうか?
それは「競争心」から来るものだと言う人がいますが、少なくとも私はハッキリと違うと感じます。
一緒に居合稽古したり、坐禅を組んだりする人たちが感じるのは「場で共鳴し合う感覚」なんだと思います。
一人の持つ何かが他の人たちの何かと共鳴してより大きな何かになって戻ってくるような感覚です。
「何か」とは?
パワーとか?
エネルギーとか?
気とか?
う〜ん、やはり言葉では言い表せない「何か」です。
これは人によって違うと思います。
少なくとも私はそう感じています。
禅に隻手音声(せきしゅおんじょう)という公案があります。
両手を打つ音は聞こえるが、隻手(片手)ではどんな音なのか?
私は手は元々片手のままでも音の源を持っていて、それを打ち合わせることでより共鳴増幅されるのだと思っています。
片手の音は聞こえないけどあるんだよ
金子みすゞ風(笑)
もちろん物理学的な理解とは違います。また禅解釈としても間違っていると思います。
でも私はこの公案をそんな感じに捉えています。
稽古の場はそんな「何か」の「共鳴増幅装置」なんだと思います。
そしてそこには共鳴してくれる人たちの存在が絶対に必要です。