見ずに見るという見方

2月13日付けの日経新聞文化面に写真家の鷹野隆大さんがこんなことを書いてました。

気になったので静稽録に書き記したいと思います。

 

「とりわけ写真の不思議さを感じるのは、主体との関係である。対象を的確に写そうとしたときに、「撮ってやる」という強い意志で臨むと、かえってうまく写らない。そういう写真は撮り手の自意識ばかりが目立って対象が見えてこないのである。うまく写すには、「見ずに見るべし」などと禅問答のようだが、経験値としては確かにある」

 

この記事を読んで、そう言えばH会のT先生も以前にこんなことを書かれていたことを思い出しました。

 

「整体の施術も、その核心部分は見えないものだったりすることがあるのですが、その見えないものを見ようとすると余計に見えなくなるということがあります。

見えないだけならまだいいのですが、思い込みや勘違いから見えた気になってしまうということもよくある話で、よくあるだけにこれはけっこう厄介です。」

 

見えぬけれどもあるんだよ、

見えぬものでもあるんだよ。

 

このシリーズ!?は、金子みすゞさんの詩しばり、でいくことに決めました(笑)」

 

T先生の思いはさらにその先に話が及びます。

 

宮本武蔵は五輪書水の巻「兵法の目付ということ」の中で

 

「眼の付け様は、大きに広く付るなり。観見の二つあり、観の目つよく、見の目よわく、遠き所を近く見、近き所を遠く見ること、兵法の専なり」

 

と書きました。

 

坐禅の半眼でも似たようなことを言われます。『正法眼蔵坐禅儀』では、「目は開すべし、不張不微なるべし」とあります。見ているようで見ないボーッと目の奥で見る感じですかね。