政治学なんて一体何の役に立つのかと思っていました。
そんな私は大学で政治学を専攻しました。
元々は法律を勉強しようと大学を受験しましたが在学中に方向転換?しています。
「初志貫徹」が信条の父は大反対でした。まあそれはさておき・・・
当時、高畠通敏氏の「政治学への道案内」という本がありました。
うろ覚えですが、前書きにこんなことが書いてあったと思います。
政治学を学んだ学生が就職面接で人事担当者からこんな質問をされます。
「政治学は何の役に立ちますか?」
その学生はその質問にうまく答えられなかったようです。確かに経済学部や商学部などに比べればこの質問に対する回答は少し難しくなるかもしれません。
実用価値としての「政治学」を前提とした質問の「土俵」に乗ってしまったこの学生には政治学の単位はあげられないと高畠氏は厳しい評価をします。
高畠氏は「土俵」自体を拡げて「相撲」を取り続ける叡智と対話こそ政治学だと書いています。
そもそも「役に立つ」とは一体どういうことなのか?
確かにそんなところから「土俵」を広げる方法はありそうです。
当時の私には何か感じるものがあったのかもしれません。その後、政治学に方向転換しました。
方向転換に反対だった父とは法律、政治学の両方の卒業単位取得という形で妥協点を見出しました(当時はそれが可能でした)
法律と政治の両面からの思考は物事の見え方が立体的になった気もしますし、いろいろな場面でこの二つの卒業単位取得自体が評価されました。
まあそれがその後の人生に良かったのか悪かったのかはわかりませんが・・・
私は今でも、あるものが「役に立たない」と思うのは自分の考えている「土俵」が狭いからだと思うようにしています。
自分の考えている「役に立つ」範疇に縛られた稽古だけを繰り返していると本当に面白い稽古は経験出来ないと思っています。
最近はインターネットの影響からか自分の興味のあることへの深掘りは得意でも広く遠くに網を掛けることが苦手な人が多いように感じます。
「今時、居合などは何の役に立つのか?」などと言われます。
私は直接的な実用価値だけではなく、もっともっと遠いところからも居合の「土俵」を広げる可能性はあるのではと思っています。
最近、武術関係の本などを読んでいると政治学で学んだことに近いと感じることが多々あります。武術でも流派や勝ち負けさえも超えた広い「土俵」を想定出来るかどうかが奥深さを感じ、面白いと思うかどうかの分かれ道になるのではないかと思ったりします。
おもしろきこともなき世をおもしろく
すみなすものは心なりけり