「言葉にした途端に消えていく」
「具体的に言えば言うほど遠くなる」
稽古の中で「伝える」時にはいつもこんな感じを抱きます。
普段、静稽会は形(カタ)稽古が中心ですが、形(カタチ)だけを伝えるのはそれほど難しいことではありません。しかしその形(カタ)の本質を伝えるのはものすごく難しいことだと感じています。
言葉や視覚では伝わらない部分があります。センシティブな感覚を伝えるのは本当に難しいと思います。
昔は視覚、触覚などに訴えるツールを使って明確にすれば伝えられると思ってた時期もありました。
しかし全部伝えようとすると間違って伝わったり、伝わらなかったりと弊害も多いと感じるようになりました。
個々人はそれぞれ体格も感応度も年齢も違いますから、同じことを伝えようとしても全く同じ訳にはいきません。
結局は全部伝えようとするよりも「ヒント」や「キッカケ」を伝えてあとは自身で探してもらうしかないというのが結論です。
私は過去の反省から、ある時期から「伝える」から「伝えられない」を前提にすることにしました。
世の武術オタクのような人の中にはたくさんの形(カタチ)を覚えて満足している人がいますが、それは形(カタ)の本質が伝わってないことの証左でもあります。
さらにいくら形(カタ)を学んでも自分で自由にコントロール出来なければ意味がありません。
また形(カタ)は大切ですが、いつまでもそこにとどまるものではないとも思っています。形(カタ)は稽古の過程でいずれは離れ、ある時にはまた戻ってくるようなところという感じがします。
静稽会は「型」と表記せず「形」と表記してます。
「型にはめる」と言いますが、「型」は全く同じものが出来上がります。大昔に達人が見出した動きを現代に蘇らせる夢のタイムカプセルとも言えます。
それでも同じ始祖を持つはずの流派の末が随分と違うものになっていることを考えると「伝える」ことの難しさはあります。そしてそれが意味することを考えたりします。
「形」は必ずしも全く同じものを示しているわけではありません。
例えば「四角形」と言えば、正方形であっても長方形であっても構わない訳です。大きさが違っても同じ形です。
全く同じモノとかコピーではなく、その核にあるものを伝えたい、静稽会の「形」はそんな想いを反映しています。
舞踊の世界では「半分はカタを覚えるために練習する。もう半分はカタを忘れるために練習する」と言うそうです。
また芸事には「守破離」という言葉もあります。
「カタ」は「伝える」ことの難しさがあると同時に「カタ」じゃあなければ伝わらないものがあるとも思っています。
最近、ヨガを始めてポーズも「カタ」なんだなと感じました。一見見た目は同じようなポーズをとっても、意識の置き所や使う筋肉や角度が少し違っただけで体に感じる感覚は全く違います。さらにそれは「稽古」の経過とともに変わっていきます。
結局、カタの本質は本人にしか見つけられないのだと思います。
また形でも型でも見据える先の「輝き」は同じなのではないかと思っています。