今年最後の稽古も無事に終わりました。
最近では稽古自体が無事に終わる毎にホッとするようになりました。
昔は感じなかったことです。理由はいろいろです。
年の瀬に少し大きな流れを確認しておこうと思います。
普段の稽古にはあまり関係ないかもしれませんが、こんなことを書いておくのも面白いかもしれません。
日清戦争の勝利に沸き立つ1895年(明治28年)4月17日(日清講和条約調印日)に「大日本武徳会」という武術復興を目的とした団体が設立されました。
「大日本武徳会」の中には多くの剣術流派があったそうです。
神道無念流、天自流、直心影流、神陰流、一刀流、小野派一刀流、無刀流、武蔵流、聖徳太子流、北辰一刀流、無外流、心形刀流、浅山一伝流、鉄仲流・・・
当然、一つの団体の中にこれだけの流派が林立すれば現場ではいろいろな問題が出てきます。
そこで形を統合しようということになります。
明治39年、剣術は独自の統合剣術形「武徳会剣術形(天・地・人の形)」を制定しますが・・・これがなかなか上手くいきません。
まあそうでしょうね。
そこでその剣術形は再度練り直しが求められます。一旦、大正元年に「大日本帝国剣術形」が出来ますが、これもなかなか問題が多くて定着しませんでした。
大正6年に追加、昭和8年にはさらに増補を行いなんとか「大日本剣道形」としてようやく落ち着きます。
気が付いたでしょうか?
気が付かない方は続きをお読み下さい。
一方柔術は剣術と同様に明治39年に古流柔術諸派の形を統合した「武徳会柔術形」を制定します。こちらはそのまますんなり落ち着きます。
嘉納治五郎氏の力に依るところが大きかったようです。
内務官僚であり無刀流の遣い手であった西久保弘道は大正8年大日本武徳会副会長兼武術専門学校長に就任します。
ちなみにこの西久保弘道は千葉県市川市に住み、「弘道館」道場を作っています。
西久保弘道は「柔術」「剣術」「弓術」を「柔道」「剣道」「弓道」と改称しこの三つをもって「武道」としました。その他を「武術」あるいは「古武術」としますが、まだ排除はされていません。
空手術や合気武術などもこの中に入っていました。
昭和17年に政府は財団法人「大日本武徳会」を厚生、文部、陸軍、海軍、内務大臣の管轄する外郭団体に改組してしまいました。会長は東條英機(内閣総理大臣兼陸軍大臣)です。
種目も「剣道」「柔道」「弓道」「銃剣道」「射撃道」の五つとされて、その他は完全に排除されてしまいます。
そして終戦後GHQにより「大日本武徳会」は解散。
軍事色を一掃するということから「武道」は全面的に禁止されます。
剣道は唯一の活動基盤であった「大日本武徳会」を失い、組織的活動も禁止させられたのに対して、柔道は講道館の解散を免れて細々ではあるものの活動は出来たそうです。連合国将校の中に愛好者が多かったからとも言われています。
その後、剣道は昭和25年「全日本撓(しない)競技連盟」が結成されます。「撓」とは袋竹刀のようなものだったそうです。「撓」「競技」という名乗りに涙が出ますね。
その特徴は武道色をできるだけ払拭してスポーツ化したこと。これにより「軟式剣道」などと言われながらも新しい「スポーツ」として再出発します。
そして昭和29年にようやく「全日本剣道連盟」に統括されて、今の剣道につながります。
柔術が早くから講道館「柔道」に統一されたことで流派色が消えた反面、群雄割拠でなかなかまとまらなかった剣道界には終戦まで色濃く剣術流派色が残っていたそうです。また排除された古武術であった剣術流派の中には武徳会種目から排除されたがゆえに細々と生き残ったものもあったのではないかと考えたりします。
戦争に翻弄された「道」と「術」ですが、さてどっちが良かったのか?
ちなみに「大日本武徳会」は昭和28年に任意団体として設立され、平成24年に一般社団法人となってます。
来年も楽しく、静かに稽古したいものです。
良いお年をお迎えください。