天才の伝え方

「順序だてて稽古したというようなことが一つもなかった。教える稽古ではない」

 

「先生は系統だてて教えませんでした」

 

「今日やるのと明日やることが全然違う」

 

これらは武術家植芝盛平氏に直接指導を受けたという弟子たちの言葉です。

私が知るある武術家の先生の指導を受けた方からも全く同じ話を聞いたことがあります。

そうなるとどうしても指導についていける人が少なくなる・・・ようです。

2023年11月23日の静稽録「ミスターの伝え方」で長嶋茂雄氏の伝え方についても書きましたが、天才と言われるような方たちに共通する特徴なのかもしれません。

 

もちろん私は天才ではありませんので、稽古では継続性や一貫性を考えて、なるべく矛盾のないように伝えよう、わかりやすく伝えようとします。できる限りですが。


でも果たしてそれで伝えたいことが本当に伝わっているのか・・・?

わかりません。

 

昔はわかりやすくするためにいろいろな「工夫」をしていました。

しかしある時から、かえってそれが道を遠くしていたのではないかと考えるようになりました。

私の伝え方の「工夫」が「本質」とは離れた方向に進んで行くのを感じたことがあったからです。

私が伝えたいと思っているものはそう簡単には伝わらないものだと再認識しました。

 

JUDOか?

柔道か?

柔術か?

 

さらに最近、嘉納治五郎や植芝盛平の武術性について書いてある本を読んでさらに深く考えさせられました。

 

より多くの人に伝わるようにするのか?

特定の人にだけ伝わればよいと割り切るのか?

そもそも特定の人だけにしか伝わらないのか?

武術性をどうとらえたらよいのか?

 

当初、植芝盛平氏は弟子を取ることにあまり積極的ではなかったようです。

入門には二人の紹介状が必要で、紹介状がなければ見学さえ許されなかったと言われています。

道場の月謝も大卒サラリーマンの初任給程度だったそうです。

 

伝わる人には伝わる

伝わらなければ仕方がない

伝わらない人に伝えても・・・

 

より多くの人に武術稽古の楽しさや奥深さを知って欲しいと思うとそう簡単に割り切れない私です。

凡人は凡人なりに悩みます。