昔、ウズベキスタンのヒヴァというところで茶碗を買いました。今でも毎日その茶碗を使っています。ヒヴァは特に陶器が名産という訳ではありません。
ただその茶碗の大きさや形が手に心地良いのでつい手にとってしまいます。
「掌(たなごころ)に馴染む」というのはこういうものかと使うたびに感じます。
私の手は体に比して少し小さいかもしれません。
手の大きさは人としての器の大きさだと言う人もいます(笑)
刀を使う時には柄を握ります。
やはり手に馴染むかどうかは重要です。
流派によっても違うと思いますが、刀の柄の握り方は野球のバットの握り方とは異なります。
また一概に「手の大きさ」と言いますが、指が長いのか?掌が大きいのか?によって同じものを握った時の感覚は違うはずです。
私の場合は指と掌の対比で言うと掌の面積が大きい・・・おそらくフォークボールが投げられる指ではありません(笑)
宮本武蔵は五輪書の中で柄の握り方についてこう書いています。
「太刀のとりやうは、大指ひとさし(親指、人差指)を浮ける心にもち、たけ高指(中指)しめずゆるまず、くすしゆび小指(薬指、小指)をしむる心にして持つなり」
武蔵は自分の手に馴染む刀を前提としてこの「太刀のとりやう」を解説したはずです。
映画「武蔵-むさし-」では木を削って特製木刀を作ったり、対戦毎に武器を調整する武蔵の姿が描かれています。
残っている資料などからも武蔵自身が武器の製作にも携わっていたことが知られています。
武蔵の刀はどんな柄だったのでしょうか?
武蔵の手はどうだったのでしょうか?
想像がふくらみます。
武蔵は「太刀のとりやう」で指のことばかり書いています。もしかしたら武蔵は指が長かったのかもしれません。手自体が大きかったとも考えられます。
手の大きさや形は変えられませんので、人によって柄を手に馴染む大きさや形にするのは当然です。
剣道でも竹刀の柄を柄太や小判形にしている人もいます。
私の場合は指よりも掌の方が柄に触れる面積が大きいので、まさに「掌握」という感じになります。
やはり指が長い方が有利なんでしょうか?どうなんでしょう?
仮にもしそうだとしても自分の手は変えようがありません。
稽古で使っている一般的な木刀の柄はほとんど同じですし、市販の居合刀(模造刀)なども刀身の長さや重さ、反りなどは多少の選択は出来るものの柄の大きさや形状は乏しいように感じます。
真剣でも居合刀でも稽古に使う刀を選ぶ時にはもっと柄にも注目する必要がありそうです。
また柄糸の種類や巻き方によっても握る感覚は違ってきますし、柄糸で出来る菱形の位置、目貫の位置にも影響を受けます。
武士が自身の命を預けた刀というのは刀身だけではないような気がします。
ちなみに世界的なギタリストの布袋寅泰さんは「シェイクハンド」という第六弦を親指で押さえる奏法なんだそうです。
布袋寅泰さんの手は体に比してそれほど大きくはないそうですから、手の大きさは巧拙とあまり関係ないのかもしれません。
「弘法筆を選ばず」
あ〜耳が痛いです。