もしかしたら永遠のテーマなのかもしれません。
今年は大上段に振りかぶって私の稽古総見のテーマに掲げてみました。
どうやったらフワッと立ち上がれるのか?
煙が立ちのぼるように、軽く、立つそぶりも見せずにいつの間にか立ち上がれるようになりたい。
そんな思いを抱えながらこれまで稽古を続けてきました。
でもなかなか満足いく立ち方にはなりません。
掴みかけては遠ざかり、掴んだと思ったらやはり違うを繰り返してきました。
「どれも当たらずといえども遠からず」
ずっとそんな感覚を引きずったままです。
それでも先達に教えを乞い、書物を紐解き、何年も稽古を積み重ねていると少しはわかってくることもあります。
そして理屈がわかったとしてもそう簡単に出来るものでもない、ということもわかってきます。
それを可能にする体を鍛え続ける必要もあります。
さらにはどうも「仕掛け」は単純なものではなさそうです。もっと複数、複雑な「仕掛け」が組み合わさっていることもうっすら見えてきます。
先日、翡縁会の稽古にお邪魔してその「仕掛け」の一つを体感することが出来ました。
「ああ、これも加えたらさらに軽くなる」
確かにそう感じました。
目線をもっと広く、遠くに伸ばした先にこれまでとは違う道を見つけた気がしました。
数学の図形問題を解く際に仮想線を引いて解くような感覚に似ています。
そんなところにも解き方のヒントがあったのかと。
驚くような視点から解いていくのが数学の醍醐味ですが、もしかしたら稽古も同じなのかもしれません。
求めるものは一つでも辿り着く道は一つではありません。そして複数の方法を用いて異なった視点からアプローチすることは可能性をさらに高めてくれます。
だから稽古は面白い!
今年も大刀剣市の季節がやって来ました。
ほぼ毎年お邪魔しております。今年は三日間ではなく二日間でしたが、出店しているお店はほぼ例年と同じでした。
初日は私一人でぐるっと回りました。午前中は稽古がありましたので午後半日のみです。
例年のことですが川崎晶平刀匠にご挨拶したり、お世話になっている刀屋さんにご挨拶したり、私の差し料の柄糸巻きをお願いしたり、合間に刀、刀装具などを見て回ってあっという間に終了でした。
二日目は翡縁会のSさん、静稽会のMさんと終日見て回りました。
翡縁会のSさんはだいぶ勉強されているらしく知識も豊富で刀の鑑賞の仕方も実に堂々としています。Mさんは日本刀の勉強を始めたばかりですが、非常に熱心です。
そんな若いお二人の姿を見ていて嬉しくなりました。
テレビ局も来て海外の方が日本刀を購入する姿などを映していました。
そんな中にポール・マーティン氏のお姿を発見しました。
NHK番組「趣味どきっ!」の「刀剣lovers探求」の講師を務めたイギリス人日本刀研究家です。日本刀伝道師などとも言われています。
「趣味どきっ!」観てました!
番組以前からその見識の深さ、日本刀への想いの強さなど個人的に大変尊敬しておりました。
もちろんマーティン氏は武道にも精通しています。
私の日本刀バイブルの一つ 中原信夫著「詳説 刀の鑑賞 基本と実践」を英訳した人でもあります。
思いがけずお会い出来てとても嬉しかった!
そしてその日のうちにメールまでくださる親切さと礼儀正しさに再び感動してしまいました。
最近の大刀剣市は海外の方が多く、出展しているお店の方も外国人の方が対応しているケースが多かったですね。ある刀屋さんは「買われていくのは海外の方々ばかりです」とさみしそうでした。円安も影響しているようです。
将来、大刀剣市では英語が「公用語」になる日が来るかもしれません。
そう考えるともう日本刀は日本から離れて海外の方々が支えてくれているのかもと思ったりします。
・・ちょっと複雑な気持ちです。
いやいや翡縁会のSさんや静稽会のMさんのように日本刀に興味を持ってくれる若い人が日本にももっといるはず・・・そう期待したいと思います。
肥前吉廣 二尺五寸二分
現在、私と稽古を共にしてくれている差料です。
真剣で稽古を始めてから15年ほどの時が経ちました。
真剣に切り替えるまで居合刀(模造刀)で十分稽古したとは言え、初期の真剣稽古は敵を斬る意識どころか、むしろ真剣で自分自身を傷つけないか?という恐怖の方が強かった気がします。
真剣のパワーが自分を圧倒してきました。
真剣から立ち昇る霊気
耳の近くを通り抜ける刃音
空間を切り裂く先鋭
手に触れる深い冷感
真剣という「鬼神」が自分の体の一番近くにいるという感覚はなんとも形容し難いものです。
重さ、長さ、バランス、形状が同じでも居合刀(模造刀)と真剣では全く違います。
そして一回でも「鬼神」と一緒に稽古するともう元には戻れません。
「鬼神」に取り憑かれてしまいます。
真剣稽古は「鬼神」からまず自分の身を守る稽古が必要になります。
刀を差している時は必ず鍔を親指で押さえます。そしてその親指は絶対に刃の上には置きません。
例えば刀を差したままうっかり落としたものを拾ったりすると刀が鞘から飛び出す可能性があります。
そんな時、思わず飛び出した刀身を掴んでしまったりすると・・・
その他にも真剣稽古には自分を守るための「ルール」がいくつかあります。
うっかりその「ルール」を失念すると「鬼神」は冷水を浴びせてきます。
そんなヒヤリ経験を経て心の隅々まで「ルール」の大切さが染み渡ります。
自分を守る「ルール」とともに一緒に稽古をする人を守る「ルール」もあります。
万が一、誰かをケガをさせてしまったらもう稽古は続けられません。
ですから「ルール」を守るのは絶対です。前に立つ人は安全管理が最優先になります。
(お陰様で静稽会は発足以来、安全に稽古が続けられています)
そんな緊張感が稽古場に漂い特有の雰囲気が作り出されます。だからこそ稽古が非日常になります。
考えてみれば袴に着替え、俗世から「結界」で切り離された稽古場という聖なる空間(だから入退出に礼が必要になります)の内側で「鬼神」と一緒に稽古する訳ですから、非日常になるのは当然です。
真剣稽古を続けているとやがて「鬼神」は自分を見守ってくれる頼もしい存在になってくれます。
稽古の度に手入れをしたり、時々眺めたりして親交を深めます。
たまには目貫や鍔、柄巻きなどもかえてあげます。
するとさらに「鬼神」が寄り添ってくれます。
そんな「鬼神」との付き合いも居合の魅力の一つです。
もしかしたらそんな「鬼神」に巡り会えるかもしれません。
毎年恒例の大刀剣市が11月2日(土)〜11月3日(日)に開かれます。
ガラス越しにみる美術館の刀ではなく、近くで見て、触って、重さや匂い、そしてオーラを感じる「鬼神」です。
稽古をもっと楽しくするためのヒントをいただこうと翡縁会様の稽古にお邪魔させていただきました。
多々良先生のご厚意に感謝いたします。
稽古はまず胡座の状態から目を顔の中に落とし、首の付け根あたりを緩めて顎を軽く前に出しながら頭を腹に落とす心持ちで後ろに倒れるという稽古から始まりました。その時に上半身と下半身は繋がったままを保ちます。
これは後ろ受身?
でも私の知っている後ろ受身とは違います。
なんだか遠い昔に舞踏のワークショップでやった身体操作を思い出しました。
舞踏のワークショップではまず「頭を腰の上に乗せて歩け」と言われました。
「頭を腰の上に乗せる?」
どうしていいかわからずオロオロした記憶があります。
その時のワクワク、ドキドキを思い出しました。
そんな出来そうで出来ない稽古が次々と進んで行きます。この稽古は一体何処に行くのだろう・・・と思い始めた頃、突然、伏線の回収が始まりました。
ああこれがこれとつながるのかあ
これはこのためだったかあ
推理ドラマの伏線回収のような後半稽古にグイグイ引き込まれます。
最後は落語のような見事なオチでアッという間に終了しました。
簡単な動きのようでもなかなか出来ない動き
根から先へ、先から根へ
一つの動きで一つでない動き
受身、螺旋、転換、廻剣、浮身
全てが一気通貫でつながりました。
なんて面白い稽古をしているんだろう!
稽古の楽しさを存分に感じることが出来ました。
多々良先生、ありがとうございました。
また当日稽古に参加されていた翡縁会のみなさま、ありがとうございました。
さらに稽古後の食事会までご一緒させていただきました。
全てに感謝します。
これまでとは違う方向からの光が見えたような気がしました。
ただ技量も経験も体力も年齢も違います。
仮に頭では理解できたとしても果たして出来るか?という問題もあります。
丸ごとそのままというわけにはいきませんが、これから一つ一つを咀嚼、消化、吸収して稽古を再構築していこうと思います。
もちろん稽古をもっと楽しくするために。
最近、サウナなどで「ととのう」という言葉をよく耳にします。
私自身はサウナには行きませんが、「ととのう」という感覚には大変興味が湧きます。
先日、あるテレビ番組でサウナで「ととのう」とは何か?を特集していました。
「ととのう」は「奇跡の2分間」と言われているそうです。
熱いサウナと水風呂を繰り返すことで押し寄せる特別な感覚だと言います。
人間の神経には交感神経と副交感神経があって、交感神経は覚醒させる神経、副交感神経はリラックスさせる神経と言われています。
サウナで体が熱気に晒されると交感神経が刺激されて覚醒した状態になり、水風呂で冷やされると副交感神経が刺激されてリラックスした状態になります。
そしてそれらをある程度繰り返すと覚醒とリラックスが同時に押し寄せる瞬間が来るらしいです。
そして脳は覚醒しているのに体はリラックスするという「奇跡の2分間」が味わえるという話でした。
実は前々から思っていたことですが、稽古後の「スッキリする」感覚は「ととのう」感覚に近いのではないか?
2024年9月16日の静稽録「健美居合会」にも書きましたが、稽古の後に「スッキリ」する感覚を得ている人は確かに多いです。
真剣稽古して覚醒し休憩でリラックス
これを繰り返すと「ととのう」「奇跡の2分間」と同じような感覚が来るのではないか?
ただ稽古あとの「スッキリ」感は2分間よりももう少し長い感じがしますが・・・
覚醒とリラックスの落差が大きいほど長くなる?
信じるか、信じないかはあなた次第です!
稽古総見の時期になりました。
早いもので稽古総見も今年で十三回目になります。
以前にも書きましたが私は稽古総見は竹で例えれば節のようなものだと思っています。
空洞の竹がしなやかで強いのは節があるからです。
普段の稽古を支える大事な静稽会「特別稽古」になります。
竹の節の間隔は根元が狭く、上に行くにつれて広くなっています。さらに上のほうにいくと、また狭くなっているそうです。
間隔を狭くするのは丈夫にするためです。
根元は自重に堪えられるように、先は枝葉を支えられるように。
そしてそのことが竹のしなやかな強さを作り出してます。
なんか深いですね。
樹木は先端の1カ所で細胞分裂して伸びていくのに対して竹はすべての節に分裂組織があるそうです。
すべての節がアコーディオンのように一斉に広がっていくように成長します。ですから節の数はタケノコの段階で全て決まっているんだそうです。
これから先の静稽会の「節」の数はわかりませんが、すでに決まっているとも言えます。
限られた数の「節」ですから、大切にしていきたいと思っています。
稽古総見は人に見せることを前提にしていませんので、上手く取り繕う必要はありません。
普段の稽古のままに各人のテーマに沿って自分を記録に残します。
むしろ人に見せることよりも見られている自分と向き合う稽古です。
百尺竿頭進一歩
NHK朝ドラの「虎に翼」もそろそろ最終盤です。
ドラマタイトルの「虎に翼」ですが、私は「虎に竹」の方が馴染みがあります。
「虎に竹」が刀の目貫や日本画などによく使われる意匠だからです。
ちなみに「虎に翼」の目貫や日本画は見たことがありません(笑)
「虎に竹」も「虎に翼」と同じような意味だと思われていますが・・・
「虎に翼」が「鬼に金棒」のように強いものにさらに強力なものを付け加えるというのに対して「虎に竹」は強いものが苦手なものを補うという違いがあります。
虎が苦手なものとはなんでしょうか?
それは象だと言われています。
虎は象の群れに追いかけられると竹林に逃げ込むと言われています。象には象牙があって竹林の中での動きが制限されるからです。
「虎に竹」は虎が象から身を守るために竹林に身を置くことでより安心出来るという意味だと聞きました。
「虎に竹」は「強さを増す」というよりも「弱さを補う」という意味になります。
この組み合わせは任侠映画などによく出てくる♪背中で泣いてる♪「唐獅子牡丹」も同じです。
獅子が弱いものは何か?
それは「獅子身中の虫」です。
獅子は体の中に入った虫に対処するすべがありません。
その虫が嫌がるものが牡丹の朝露で、その朝露を飲むと虫は死ぬと言われています。
獅子は牡丹の花の下で安心して眠れるというわけです。
そう言えば高倉健さんは「唐獅子牡丹」、藤純子さんは「緋牡丹のお竜」でした。
なかなか面白い組み合わせです・・・脱線しました。
キーワードは「安心」です。
人は強さを追加するよりも弱さをカバーする方が「安心」するのかもしれません。
もちろん解釈には諸説ありますが、私はこの説が一番腹に落ちます。
そう言えば朝ドラ「虎に翼」の中にはみんなが集う「甘味処 竹もと」が出てきますが、これは安心した虎が竹のもとに集うから?
昨年7月に市川市地域限定の初心者稽古会「健美居合会」が設立され、剣術、居合指導の依頼を受けて月2回出張稽古指導しております。
メイン会員は高齢の男女ですが、稽古前のストレッチなども念入りに行い、ケガのないよう丁寧にゆっくりとした稽古を進めています。
先日、懇親会が開催され、みなさんからこの一年間の稽古の感想などを聞くことが出来ました。
その中でこんなことを言った人がいます。
「とにかく稽古が終わったあとにスッキリするんですよ!」
ちなみにその方は82歳最年長の男性で若い頃に長年合気道を稽古していた経験があるそうです。
全く同じ言葉を静稽会の人たちからも聞いたことがあります。
その男性は「年齢的なこともあり著しく技術が向上するということはないかもしれないが、とにかく「スッキリする」というだけで十分続ける意味がある。それからいくつになっても出来たことを褒められるのは嬉しい」と言います。
すると別の方はこんな話をしていました。
「他の武術の会に体験に行ったところ、肩が上がらないと言っているのに無理な動きを求められた。上がらないものは上がらないのに・・・その点、健美居合会は無理ない範囲で少しずつ動かしていきましょうという指導なので安心する」
木刀を手にした時の目の輝き、袴を履きたいと袴の履き方、畳み方を覚えようとする姿勢、稽古で出来なかった動きを悔しがっている姿を見るとそこには若い人たちとは違う武術への向き合い方があると感じます。
また昨年取得した公益法人日本スポーツ協会認定スポーツコーチングリーダーや市川市公認スポーツ指導者の知識や経験も高齢者には十分活かされています。
「健美居合会」は1名も欠けることなく2年目に入り、さらに最近2名の新会員を迎えました。
新会員のお一人は現役の合気道女性指導者であり、別の武術も学びたいと非常に意欲的です。もう一人の男性の方も空手経験者です。
高齢者には若い人とはまた違う「真面目さ」があって、稽古中、稽古後の質問も頻繁です。質問の内容も多岐に渡ります。単に体の使い方だけではなく、文化全般に渡る質問などもあり、私も大変勉強になります。
くしくも今日は「敬老の日」ですが、やはり人生経験豊富な方々との稽古は若い方々とは違った趣きがあり、私自身も楽しく稽古させていただいております。
先日、シンクの箸立ての中に箸に混ざって果物ナイフが入っていることに気付かず、指先を軽く傷つけてしまいました。
箸立ての中の果物ナイフはたまたま切先が真っ直ぐ視線に向かって立っていたので全く見えませんでした。
鏡のある稽古場で刀を持って構えを確認していると刀身が全く見えなくなる瞬間があります。
木刀などにはない刀の恐ろしさです。
一番刀身が見えにくくなるのは私が指先を傷つけた時のように切先が視線に向かって真っ直ぐ向けられている時です。刀身の長さもわかりにくくなります。
脇構えの時などでも切先の位置や角度によっては刀身が消える瞬間があります。
刀身は反射するため周りとも同化しやすく、より見えにくくなります。
さらに刀身は動きますので、速さが加われば尚更です。
木刀などと比較してみるとその違いがわかります。
敵の視線から刀が消える瞬間を意識すると、構えや斬り方、形などの中にもそんなことを意図しているのではないかと感じるものがあります。
一瞬でも敵の刀が消えるというのは恐怖です。
昔、柔道の師はよくこんなことを言いました。
「礼一つ見ただけでその人の技量がわかる。隙のない美しい礼が出来る人は手強い」
私は強くなりたい一辺倒の子供たちに礼の大切さを教えるための師の「方便」だと思っていました。
礼を「頭を下げる」ことだと理解している人がいます。
それが正しいとすれば、最近よく見かける首から上だけ下げて「ウィ〜ッス!」もありということになります。
中学生の時、英語の授業は
「stand up!bow!sit down!」(起立!礼!着席!)
で始まりました。
英語でbowは「弓」「弓状に曲がる」という意味です。
これも師が教えてくれた隙のない美しい礼ではありません。
正しい礼は股関節を使って腰から体を静かに折り曲げます。体は「弓」のようにはなりません。
礼の時には膝は固めず少し緩めています。自然体の「構え」ともいえます。
師は武術的な意味でも股関節や膝の緩みが正しく使える人は技量が高い可能性があると言いたかったのではないか?
そんなことを思ったのはかなり後のことです。
元々、柔術を教えていた師でしたから、いろいろな意味を込めていたのかもしれません。
もちろん正しく美しい礼の出来る人は余裕もあり高い精神性と技量を備えているから十分気をつけろと。
師はそう言う人でした。
また礼は相手から自分がどう見えているか?自分は相手をどう見ているか?ということが大事です。
こちらの理由の方が直接「手強さ」に通じるかもしれません。
「彼を知り己を知れば百戦殆からず」
礼一つではありますが、礼一つでわかることもたくさんあります。
映画化もされた椎名誠の小説「倉庫作業員」の中にこんなことが書いてあります。
「真鍮板は長さ1メートル、幅50センチの規格で0.1ミリから5ミリまで細かく製品化されていた。-中略-
倉庫作業員はこれをひとつずつかつぎ、トラックの荷台から倉庫の指定棚までの間を何度も往復して運んだ。二、三度体験すると、この作業は厚い板材ほど安定し、楽で安全だが、薄くなるにつれておそろしく厄介で危険だ、ということがわかってきた」
「0.1ミリから0.5ミリぐらいまでの真鍮板は紙よりも薄いかんじで、それらがいくら百枚二百枚と重ねられていてもすべてがぐにゃりぐにゃりと揺れ動き、両手でかかえていても安定しないほどだった」
同じ重量の物体でも状態によって軽く感じたり、重く感じたりします。
経験がある人もいるかと思いますが、酔っ払って意識のない人を担ぐのは結構骨が折れたります。
安定しない状態のものが重く感じるということには武術的なヒントが含まれています。
また、初心者の方によくこんなことを試してもらいます。
「まず木刀を腕を伸ばしたまま脇の下あたりで水平斬りにして止めて下さい。次はそのまま木刀を立ててみて下さい。最後にそのまま体の近くに近づけてみて下さい。木刀の重さはどう変わりましたか?」
「さらに木刀を立てる時に手の位置を動かさないで立てるのと木刀の真ん中あたりを円の中心にして立てるのとでは違いはありますか?」
同じ木刀も持ち方や位置、動かし方によって感じる重さが違うことを知ってもらいます。それを踏まえてこの組み立ての中で振りかぶりと斬りを説明していきます。
重さの正体を知ってその使い方を工夫すると同じ重さのものでも自分には軽く、相手には重く感じるようになります。
パリオリンピック柔道100kg超級で金メダルを獲得したフランスの英雄テディ・リネール氏ですが、東京オリンピック銀メダリストのグラム・ツシシビリ氏(ジョージア)との試合直後にトラブルとなりました。
試合結果はリネール氏の一本勝ち。後に反則勝ちに改められました。
もちろん試合直後のツツシビリ氏の行為はとんでもないものです。絶対に許されません。
しかしある仏紙はこう伝えています。
「テディが左手で対戦相手の首を押さえつけると、そのツシシビリに両足で持ち上げられた」「テディは自分が倒れる前に喜びを表現し、ツシシビリはそれを快く思わなかった」
その後、リネール氏は両手を挙げ、自身が何もやっていないとアピールし、右腕を突き上げて会場を煽る?これを目にしたツシシビリが再びにじり寄るといった一連のやり取り・・・
これらは全て勝敗が決した後のトラブルです。
なぜ日本の柔道家たちは勝っても畳の上で喜びを表現しないことが多いのか?
リオオリンピック金メダリストの柔道家大野将平氏は「なぜ畳の上で喜びを表さないのか?」と問われてこんなことを言っています。
「相手のいる競技の中で、こちらが投げて勝っている。悔しがっている相手に対して、こちらが喜ぶということは、その相手に悔しさ以外の余計な感情を芽生えさせる結果になるかもしれない。だから何もしない。それが僕のスタンスですね」
圧倒的に強い英雄と言われるような人だからこそ、もう少し英雄らしい勝者の振る舞いがあっても良かったのでは・・・と思ったのは私だけでしょうか?
このところ深夜までオリンピックの柔道を観ていて寝不足です。
パリオリンピックの柔道で「反則負け」が多いことに不満が出ているという記事をみました。
確かに試合中に消極的や偽装攻撃という理由で「指導」を受け、「指導」三つで「反則負け」というのは納得できない場面もあるかもしれません。
Hさんは剣術稽古で相手の懐に踏み込んで攻撃する際に足を踏んでくることが多々あります。
最初から足を踏もうとしている訳ではありませんが、相手の中心を攻めている中で結果として足を踏むことになると言います。
そしてそれは相手の動きを封じる攻撃としては大変有効だとして用いています。
柔道では故意に相手の足を踏みつけて技を仕掛ける行為は反則とされています。
Hさんの行為は柔道では「反則」?
武術ならどうでしょう。
武術には「反則」という概念はありません。
Hさんの行為は「反則負け」どころか優位に立つ技になります。
これが武術と柔道の違いです。
本来武術はスポーツではありませんから「ルール」はありません。
想定も違います。
武術の想定は敵は一人ではありません。
武器もさまざまです。
戦う場所の想定も多様です。
危険行為という概念もありません。
攻撃箇所、攻撃方法に制限はありません。
時間制限もありません。
またオリンピックの柔道の判定がおかしいと言う人がいます。
ルールがあるスポーツには判定が不可欠です。
その判定を人間がやることになれば完璧という訳にはいきません。
人間の判定に満足できないということになれば技や反則行為を細分化して学習したAIが判定をすることになります。
AI判定柔道になるとどうなるのでしょうか?
AIに勝ちと判定されるような技や反則勝ちの研究がなされて、本来の柔道からはどんどんかけ離れていく?
そしてまた新たな技や反則の種類も増える?
その先に柔道はあるのか?
もしかしたらますます柔道が面白くなくなるかもしれません。
私は目が光に敏感なことから普段は調光メガネを掛けています。度数はそれほど強くありません。
しかし、メガネを長時間掛け続けていると頭が痛くなってしまいます。
そしていつの間にか外してしまう・・・
最近、メガネの度数が合ってなかったことを知りました。
メガネ店の視力検査の後でトライアルレンズ(あの丸い「鉄メガネ」)を掛けます。
そして店外を眺めてよく見えるかどうか確認します。
どうもこれがメガネの度数設定を誤らせていたようです。
・・・どこが?
「店外を見る」が間違ってました。
考えてみれば日常生活で遠くを見る機会は少なく、せいぜい2〜3m程度のところを見ている時間が圧倒的に長い訳です。それなのに遠くが見えることを優先してメガネの度数を決めていました。
メガネを掛けて主にどこを見るのか?
どれくらいの距離を見ている時間が長いのか?
結果的に1.0の度数は不要で0.8程度が見える度数で良いことになりました。
せっかくメガネを作るならなるべく遠くが見えた方が良いという貧乏性が裏目に出ていたようです。
結果的に度を入れない調光グラスでOKとなりました(笑)
私は稽古で使う刀のスペックも同じだと思っています。
長さ、重さ、身幅、重ね、反り等々は使う人の体格、技量、経験等々に合っていなければなりません。
稽古で使う刀は必ずしもスペックや値段が高い刀が良いとは言えません。
使う時の自分に合った刀が一番良い刀です。
「過ぎたるはなお及ばざるが如し」
ただしこれはどこまでも道具としての話です。
今年も稽古総見に向けて準備をする時期になりました。
現在、稽古総見への案内をしているところです。
そんな中、例年ゲスト参加して下さるCさんが交通事故で入院されたとお聞きました。
今年の稽古総見参加は難しいとのこと・・・心配です・・・
今年はあの気合の入ったダイナミックな演武が見られないのかと思うと本当に残念です。
そしていつも演武の相手をつとめているSさんはどうするのか・・・と心配していましたが、Sさんから早々に稽古総見参加の返事をいただきました!
Sさんからの伝言でCさんが
「皆さんによろしく。人生なにがあるかわかりません」と
確かに明日のことは誰にもわかりません。
今日思っていることが明日出来るとは限りません。
つくづく私たちは今しか生きられない・・・
思い返してみればこれまで生きてきて「人生なにがあるかわからない」と何度思ったことか。
わかっているけどわかっていないことかも。
今年のCさんの稽古総見「演武」は言葉で受け取ったような気がします。
Cさんお大事に。
完治したらまたお会いしましょう!
2021年2月23日の静稽録に「舞踏(butoh)」のことを書きました。
元々舞踏があった私には武術の場合もやはり「踏」は気になります。
昨年の稽古総見では個人的に立身流を研究テーマに稽古しました。
立身流には「蹈足」(ふみあし)という重要な基本動作があります。
「踏」ではなく「蹈」とこだわります。
「踏」は歩くと関係なく踏みつける動作なのに対して「蹈」は歩き動く足を地につける動作だと言います。
「蹈足」は難しい動作です。
踏む時に地に接するのは「足裏」ですが、是風会の高無先生はそこに「蹠」(あしうら)という漢字を使います。
高無先生は以前こんなことを書いてました。
「私は、地球上においていつどこでも働いている、そして誰にでも感じられる力として重力を最もたしかな拠り所としています。
そしてその重力を具体的に感覚しているのは、おそらくは土台に対する反作用を感じる圧力感覚でしょう。
重力を最もよく受け、重力を把握する土台を構築しているのが地面であり、それと接している蹠(あしうら)です。
蹠の接地感をどのように感じ、受容しているかが、立っている時、立って運動している時のあり方の基底になっていると考えられます。
武術においてとても大切なこの要素は、おそらく他の運動分野においても同じくらい大切なものだろうと思います。」
「蹠」は音読みでは「せき」や「しょ」となります。
「蹠行」(しょこう)は足の裏を踵まで地面につける歩き方です。
この歩き方は速くは走れませんが、直立の安定性はあります。
ヒトやサル、クマなどがこれになります。
「蹠行」の他に「趾行」(しこう)というのもあります。
「趾行」は踵をあげて、足先だけを地面につける歩き方です。
「蹠行」に比べて安定性は失われますが速く走れます。
ネコやイヌなどがあたります。
この他にも「蹄行」(ていこう)というのもあります。こちらは爪だけを地面につける歩き方です。
ウマやイノシシ、シカがあたります。
中には歩く時は踵までつける歩き方で、走る時は足先だけをつける走り方をする動物もいて「半蹠行」というらしいです。イタチやアナグマなどです。
ちなみに肉球のことを趾蹠(しせき)とも言うそうです。
「あしうら」の使い方の違いはヒトでは狩猟か農耕か、体の大きさなどとも関係しているのか?などと想像したりします。
宮本武蔵の五輪書水の巻に「足つかひの事」というのが書かれています。
一 足つかひの事
足の はこひやうの事 つまさきを少うけて きひすをつよくふむへし 足つかいは ことによりて大小遅速はありとも 常にあゆむかことし
「常にあゆむ」「足つかひ」は「蹠」と切り離すことは出来ません。
思い浮かぶことをつらつらと書いてしまいました。
舞踏から続く「あしうら」の感覚を養う稽古はこれからも続けていきたいと思っています。
風邪も完治してようやく「原状復帰」することが出来ました。
そして先日、念願のホキ美術館に行ってきました。
千葉市にある写実絵画専門美術館です。
すべてが写真と見紛うような絵画ばかりです。
すごい写実・・・でも・・・
絵画ってなんだろう?
写実ってなんだろう?
と考えさせられました。
写実は、英語では「リアリズム」、フランス語では「レアリスム」です。
絵画で「写実主義」といえば一般的には「目に見えている状態を再現的に描くこと」だと言われます。
その昔、天使などの理想化された美のみを描いていた画家たちに対してリアリスムの巨匠クールベは
「私は天使を描かない。なぜなら、天使の存在を見ることができないからだ!」
と言ったとか・・・
彼にしてみれば「これが本当のレアリスムだ!」というわけです。どうも細部まで現物通りにキッチリ描くと言うことだけがレアリスムというわけではないようです。
そしてこちらは同じ「レアリスム」でも「写実主義」ではなく「現実主義」というらしいです(笑)
さてお題の「シュルレアリスム」です。
日本語では「超現実主義」と訳されてます。
私なんかは「シュールリアリズム」と教わりましたけどね〜かなり古い?
「シュールだね〜」などと言われるとちょっと微妙な気持ちになったりします。
まあそこは横に置いておきましょう。
確かに「シュル」は英語でいう「スーパー」ですから「超」というのもわからなくはないです。
そして「シュルレアリスム」です。
「超」ですから、今度は一周回って天使を描きます。でも天使は出てきません。代わりになるものが描かれます。それは「目に見えないもの」です。
「目に見えないもの」とは・・・「無意識の世界」です。
それを描くためにいろいろな手法が考えられます。
「無意識の世界」と言われるとなんだか共感してしまうのはなぜでしょう。
私も「目に見えないもの」を稽古で掴もうとしています。
そしてそれを伝えようとしています。
目に見えている形(カタ)を「写実」することだけが稽古だと思っていると劣化コピーが出来上がって・・・終わりです。
私は形の中にある「目に見えないもの」をあぶり出して体得するのが稽古だと思っています。
「武術は爆発だ!」(岡本太郎風)
稽古はもっと「シュル」であってもよいかもしれません。
珍しく風邪をひいてしまいました。
年齢とともに治るまでに時間がかかります。
今回は時代劇の効果音の話です。
時代劇の抜刀シーンには「シャリーン!」、納刀シーンには「チンッ!」の効果音が必ず付けられます。
少し考えればわかることですが、刀本体は金属ですが、鞘は木材なので抜刀も納刀も基本的に金属音は出ません。
もし金属音が出るとすればそれは整備不良の刀ということになります。
おそらく鍔(つば)の緩みか?
鎺(はばき)の緩みか?
切羽(せっぱ)の緩みか?
そんな訳で普通はまともな刀からは金属音は出ません。
時代劇は大好きですが、ちょっと興醒めしてしまう私です。
また刀には樋(ひ)があるものとないものがあります。
樋とは刀の側面に引かれる溝のことです。この樋があると刀を振った時に空気を切る音(刃音)がします。時代劇ではこの音も良く入りますね。
私は差料に樋のない刀を選びました。
「不要に音の出る刀を武器とするのはいかがなものか?」
闇討ちや夜間戦闘を想定した◯◯組の方が言ったとか言わないとか・・・
まあ「樋」は第一には刀の軽量化のためですから、武器として必要な処置と言われればその通りなんですが・・・
(中には装飾のためというものもあります)
刃音そのものに囚われてしまうと稽古の邪魔になることもあります。
また「樋」がある刀は研ぎ代が高くつきます。
私はもっぱらそっちの理由だったりします。
そう言えば時代劇では人を斬る時の効果音も入りますね。
人斬りの効果音は茹でてない素麺をキャベツや白菜に絡んで切って出すと聞いたことがあります。
本当の音は・・・
もちろん聞いたことはありませんが、試斬をやった人は何となくあの効果音は違うだろうなあと想像出来ると思います。
よくバットで木を殴るような鈍い音だと言われますがよくわかりません。
また斬首の時は濡れた和手拭をパン!と振る音と同じ音がすると本で読んだことがあります。
気管から空気の漏れる音が出るからでしょうか?
いずれにしても効果音無しでは間が抜けた時代劇になってしまうのも事実です。でもあまり効果音に引っ張られ過ぎるのもいかがなものかと・・・
以前、刀(模造刀)を放り込むように納刀しているご高齢の初心者がいたので注意すると「(こうしないと)音が出ないので」と言われてしまいました(笑)
その方は全てが時代劇風?いや大衆演劇風?の動きになっていました。顔の表情まで・・・
やはり時代劇の影響は大です。
先日、試斬会の設営をしている時に生まれて初めて電動ドライバーというものを使う機会がありました。
いつもOさんが試斬会設営の時に簡単に使っていたので自分にも簡単に出来るだろうと思ったらこれが結構難しい(笑)
押し付ける力が弱かったり、回転が速すぎたりするとドリルビスの十字穴から飛び出して上を滑ってしまいます。
十字穴の溝が浅くなってしまいました(笑)
また押し付ける力が強すぎたり、回転が速すぎると方向がズレれてビスが真っ直ぐ進まず斜めに差し込んでしまいます。
すかさずOさんからの指導が入りました。
「力を抜いて!もっとゆっくり!」
この言葉、どこかで聞いた様な気が・・・
力の加減や方向が難しい・・・
ちょっと納刀にも似てたりして(笑)
そして試斬会撤収の時は電動ドライバーを逆回転させてビスを外していきます。
またOさんからの指導が入ります。
「力を抜いて・・・」
「ハイハイわかっておりますよ~力を抜いて、ゆっくりですよね」
わかっちゃいるんですけどね〜
昔は家庭や学校、団体などで今では考えられないくらいひどい暴力がありました。そして「躾」「教育」「指導」といった大義名分さえあれば世間もそれを許してしまうような雰囲気がありました。
暴力に対して無自覚だった時代でした。もちろん物理的な暴力だけでなく心理的な暴力も含めての話です。
最近は多少マシになってきたかもしれません。
そんな暴力が現代でも亡霊の様に蔓延っている世界があります。
いまだに暴力でコントロールするようなやり方に効果があると信じている人たちがいます。
昨年、スポーツコーチングリーダー資格取得の際に受けた講義で一番時間が長かったのはパワハラ、セクハラに対する講義でした。
と言うことはまだまだスポーツの世界にはパワハラ、セクハラが蔓延しているという証左でもあります。
もちろん静稽会はそんな世界とは無縁です。みなさん立派な大人ですから。
少し話は逸れますが、演劇の世界で有名だったある演出家は役者が気に入らない演技をすると「灰皿が飛ぶ」と言われていました。
演技後の「ダメ出し」という言い方そのものも、その業界の体質を表しているような気がします。
先日、ある役者の方が海外の演出家は演技に対してまず「ラブリー!」「グレイト!」と言ってから「note」と言われる「提案」をすると言っていました。「ダメ出し」で指導するのではなく、役者自身に考えてもらう手法を取ると言います。
これはコーチングの手法です。
2018年5月5日静稽録「松下村塾」にも同じ様なことを書きましたが、私はnoteの手法を目指したいと思っています。
ちなみにnoteの動詞は「気づく」です。コーチングでは相手が自ら「気づく」よう促すことが大切だと言われています。
Mさんは女子中学生(JC)です。
5月下旬から静稽会で稽古を始めました。
4月下旬に親御さんに付き添われて体験稽古に来ました。
実は静稽会は原則学生を受け入れていません。
理由はいろいろあります。
理由の第一は学生の本分は勉強であること・・・
ちょっと古い?
さらに学校に部活動があるならまずそちらを優先して欲しい・・・
これも古いか。
もちろんMさんは本分の勉強にはしっかり取り組んでいる上で「居合、剣術がやりたい」と・・・
そして確かに中学校の部活動で居合、剣術があるところは極めて少ないです。
悩んだ末に一緒に稽古してもらうことにしました。
静稽会は2024年4月1日に「永久若者支援」を打ち出した矢先でもありました。
Mさんのようなとても若い方が「居合、剣術をやりたい」と表明してかつ実行してくれたことが嬉しかったというのが最大の理由です。
考えてみれば私も町道場で柔道を始めたのは小学生の時でした。その時に受け入れてくれた先生の顔が浮かびました。
とは言え静稽会としてはこれまで未成年者を受け入れたことがないので受け入れ体制は整っていません。
特別扱いするつもりはありませんが、当然のことながら未成年者に対する配慮は必要になります。
親御さんには出来る限り稽古に付き添いいただくことにしました。
たまたま昨年、スポーツコーチングリーダー資格取得の際に学んだ「ジュニア期のコーチング」が活かされる場面でもあります。どんな学びも無駄にならないと再認識しました。
Mさんは熱心に稽古します。
砂に水が吸い込まれるように吸収が速い・・・若さの柔軟性は驚異的です。
他の会員とは「異星人遭遇」と言えるくらいの衝撃的な年齢差です。
そんなMさんに刺激を受けながらお互い楽しく稽古出来ればと思っています。
居合稽古の一つに「腹抜き」という稽古があります。
腹のあたりで左右に刀を抜きます。
いやその表現は正しくありません。
説明が難しいですが、ある達人は「腹で鞘を割る」ように抜くと表現していました。
言われてみれば確かにそうかもしれません。
そんな訳でこんな稽古をやってみました。
さすがに鞘を割るわけにはいきませんので、本気で腹で木刀を割ってみてくださいと言いました。もちろん割れませんが(笑)
しかしその時の体の使い方が「腹抜き」に近い動きです。
そこからさらに先に進むと刀を抜くことの難しさが身に染みます。
まず抜こうとする場所から意識を外します。この意識を外すということ自体が大変重要です。
抜こうとする場所に意識が止まると手の内も固くなって難しさが増します。
動かそうとする場所から意識を外すのは「腹抜き」だけに限りません。
例えば首を回す時に鼻を意識したりするとよりダイナミックに動かすことが出来たりします。
「腹抜き」の場合は肩甲骨であったり、肩関節であったり、股関節であったり、膝関節であったり・・・
「腹抜き」が手元から意識を外して出来るようになるまでには時間がかかります。
居合は動かそうとする場所から動かすことはほとんどありません。むしろ遠いところから動かしていくことが多いと感じます。
例えば立った状態で右脚を外旋させるために左股関節を使ったりします。それぞれ意味が違う場合もありますが、動かす場所から意識を外して動かすというところは共通しているように思います。
稽古場ではよくこんなことを言います。
右を動かすには左を
上を動かすには下を
表を動かすには裏を
もちろん居合の運動原理と言う面もありますが、意識が及ぼす人の体の反応の不思議さを感じるところでもあります。
さらにこれらは敵対動作という面からも意味を持ちます。
宇多田ヒカルさんの歌作りはメロディが100%先なんだそうです。
作詞は音に言葉を乗せていく過程で子音から言葉を捻り出すそうです。
子音からだと毛筆の文字のような末尾が変幻自在なイメージなんだとか・・・
才能のない私には全くわかりません。
メロディが先なので子音から導かれる音に乗せる言葉の文字数には「制約」があります。
しかしその「制約」がある状態の方が作りやすいそうで、彼女はそのことを短歌の様だとも表現しています。
母親の藤圭子さんから天才の遺伝子をしっかり引き継いでいる宇多田ヒカルさんですが、歌作りは意外にも職人のやり方なんだと感じました。
音楽のことはわからなくても「制約」があった方が何かを生み出しやすいというのは凡夫の私でもなんとなくわかります。
よく天才はいきなりインスピレーションが「天から降りてくる」なんて言いますが、彼女は「制約」の中で何度も繰り返していくうちに「これしかない」という状態になってくる制作過程を踏むそうです。
本当に自由になるためには一旦不自由に身を置くことが必要なんだと、2023年4月29日付けの静稽録「自由になるための不自由」にも書きました。
もしかしたら宇多田ヒカルさんの歌の作り方は武術稽古とも共通しているのかもしれません。
長く稽古を続けているとここしかないという「通り道」が見えてきます。
もしかしたらそれが彼女の言うところの「制約」なのかもしれません。
私のような凡夫はそれが見えてくるまでに時間を費やしますが、そこから体現するのにさらに時間がかかります。
それを継続してアッサリやってのけるのが天才なのかもしれませんね~
久しぶりに旧友と会うと、いつの間にか老化や病気の話ばかり・・・
よくある話です。
どうも歳をとると自分の体が思う様にならなくなるらしい・・・
2021年8月28日付け静稽録「老残武蔵」で藤沢周平「二天の窟」という作品を紹介しました。リアルな老年の宮本武蔵が描かれています。
「武蔵は前を見おろした。さっき思わず息をつめたときに小水がとまって、武蔵の陽物はかすかな痛みをとどめたまま垂れさがっている。−中略−じっと立っている足がくたびれて来たころに、たらたらと二、三滴の小水がこぼれ落ちただけだった」(再録)
そう言えば男性の老化の進行はまず、目に来て、歯に来て、最後に・・・
実は「ゴットファーザー 2」にも同じような話が出てきます。
マイケル・コルレオーネがユダヤ系ギャングの大物、ハイマン・ロスと対面する場面です。
「気分はどうですか?」
「最悪だ。楽に小便できたら金など要らん」
さらにロスはこんなことも言います。
「健康がいちばん大切だ。成功より金より力より」
すべてを手に入れた権力者が言うと言葉の重さが違います。
稽古場でそんな話をしていたらHさんが
「そう言えば、映画『隠し剣 鬼の爪』の中で、緒形拳演じる家老が尿意に襲われて厠に駆け込んだものの「あぁ、あぁ……いばり(尿)が出ぬ」と苦しんでいましたね〜」
ピッタリの間合いで追い討ちを掛けてくれました。
しかもキッチリ藤沢周平の作品で締めくくってくるのはさすがです。
どんな人でも老化からは逃げられません。
それは武術の達人も同じです。
「神速」と言われた黒田鉄山氏も長期療養の末に先ごろお亡くなりになったそうです。
武術を志す者なら誰でも憧れるあの消える動き。しかも年を重ねるほど技は精妙になり進展を続けていたと聞きしました。
「力に頼らない、体に負担をかけない動き」というキャッチフレーズがキッカケで始めた古武術の世界です。
実はその稽古の成果が最大限に発揮されるのは若い時よりもむしろ老剣士になってからなのかもしれません。
老剣士はやがて行きつく先が見えているからこそ、いろんな戦い方も心得ています。
藤沢周平風に言えば「捨命剣老い風」・・・ですかね(笑)
2023年4月3日の静稽録で「美貌の青空」と題して亡くなった坂本龍一氏のことに触れました。
約1年経って先日、「NHKスペシャル Last Days 坂本龍一 最期の日々」という番組を観ました。
病が発覚し、亡くなるまでの3年間を記録した手記や創作ノート、プライベート・フィルムなどの資料や映像を中心に坂本龍一氏が「最期の日々」と向き合う姿が映し出されていました。
「みかんが食べたい」
「松前漬けが食べたい」
少し安心しました。
希代の音楽家 坂本龍一「教授」でも命の限りを自覚するとやはり「食べたい」なんだ・・・
考えてみれば「食べたい」は命の源泉ですから、「食べたい」=「生きたい」は体からの最初の叫び声なのかもしれません。
おそらく私なんか死ぬ直前まで「食べたい」と言っていると思います。
その後、「死刑宣告だ」と絶望の淵を彷徨う坂本龍一氏。
「いま安楽死を選ぶか?」と苦悩が続きます。
映像で一番印象的だったのは部屋の中、上半身裸で小太刀木刀のようなものを一心不乱に「廻剣素振り」をしていた映像です。
それはいわゆる一般的な素振りではなく、まさに「廻剣素振り」でした。
誰から習ったのでしょうか?
そして「廻剣」で斬っていたのは「死」への念?それとも「生」への念?
やがて
「音楽だけが正気を保つ、唯一の方法かもしれない」
「残す音楽、残さない音楽」
最期が近づくにつれて彼の表情が少し和らいでいったと感じたのは気のせいでしょうか。
削ぎ落とした先に残ったものを確認して安心感に包まれているような顔でした。
私が自分の命のロウソクの燃え尽きる先を自覚したらどうなるか?
・・・まずは大福を食べて
・・・廻剣素振りでしょうか?
もう「巨人の星」を知る人たちも少なくなってきました。
私は子供の頃、毎週テレビで観てました。
おそらく今では「不適切にもほどがある」場面がたくさん出てきて放映は不可能かもしれません。
そんな「巨人の星」の主人公星飛雄馬の魔球
「大リーグボール1号」
構えているバッターのバットにボールを当てて凡打にして打ち取るという画期的な「魔球」でした。
大リーグホール1号完成までは苦難の道です。
まずなぜか座禅を組みます。しかし心の迷いから警策で打たれてばかりの星飛雄馬。
和尚は言います。
「打たれまいと凝り固まった姿勢ほど脆いものはない。打たれて結構、いや、もう一歩進んで、打ってもらおう」
このセリフよく覚えています(笑)
この言葉が魔球のヒントになります。
そして拳銃の射撃見学、ボクシング、剣道を体験することで全体像が見えてきます。
星飛雄馬はバットにボールを当てるためにバッターの細やかな予備動作を察知して先の動きを予測します。
百発百中!
あくまでもアニメの中の話です。
星飛雄馬は武術で言うところの「起こり」(予備動作)を察知して動きを先回りします。
しかしそんな苦労して完成させた大リーグボール1号も強敵オズマの前にあっけなく敗れます。
オズマの大リーグボール1号封じはとても簡単なものでした。ボールが飛んできたら構えたままの姿勢でただバットを落とすだけ。これは衝撃的でした。
バットを落とす動作は簡単で「起こり」が分かりにくく、ボールはバットに当たらないという結果になります。そして星飛雄馬が投げる球はフォアボールになってオズマは一塁へ・・・
一般的に力を入れる動作よりも力を抜く動作は察知されにくいと言われます。
もし敵の動きが読める「大リーグボール1号剣士」星飛雄馬と戦ったら・・・普通だったら勝てません。
でもオズマのように「起こり」を消して動くことができたら「大リーグボール1号剣士」星飛雄馬にも勝てるかもしれません。
そんな訳で武術は動きを察知される「起こり」を嫌います。「起こり」を見せない動きを稽古をします。
オズマの「大リーグボール1号封じ」のような稽古・・・?
いえいえ絶対に刀は落としませんよ(笑)
日常的に染み付いた動きはなかなか消すことは出来ません。
ついやりがちな予備動作を消すために刀の握りや振りかぶりなどには神経を使います。
蹴らずに歩く稽古、さらにはバットではなく自分自身を落とす稽古とか・・・
普通のスポーツではやらないような動きを稽古します。
実は大リーグボール1号の攻防はその後も続きます。
星飛雄馬は落ちるバットにボールを当てる・・・今度はオズマがバットを投げる・・・そしてオズマの速すぎて消えるスイングへ・・・
どこまでもアニメの話です・・・(笑)
剣術話では「〇〇の小天狗」という異名をよく耳にします。
「伊庭の小天狗」と言えば心形刀流の伊庭八郎
「千葉の小天狗」と言えば北辰一刀流の千葉栄次郎
また先ごろお亡くなりになった武術家黒田鉄山氏が伝えていた椿木小天狗流棒術にも「小天狗」が付いてます。
「小天狗」って一体なんでしょう?
「小天狗」は別名「烏天狗」とも言われます。
鞍馬山の烏天狗は幼少の牛若丸に剣術を教えたと伝えられています。
烏天狗の像は必ず剣を持っていますね。これは剣術に秀でていることを表しています。
実は私のLINEアイコンは昔から高尾山の烏天狗なんです。
とは言っても高尾山名物「天狗焼」を撮ったものなんですが・・・
「烏天狗」にあやかって剣術が上手くなるようにとの密かな願いを込めています。
ちなみに高尾山の「天狗焼」は甘さ控えめの黒豆あんで生地は香ばしくてとても美味しいです!
そしてその「天狗焼」の烏天狗の顔が私に似ていると言われます(笑)
そう言えば「伊庭の小天狗」と呼ばれた伊庭八郎は第十四代将軍徳川家茂警護のため上洛した約半年の間に「伊庭八郎征西日記」をつけています。
「征西」とは随分といかつい感じですが、中身はかなりユルイです(笑)
伊庭八郎は私と同じ大の甘党だったようで、その日記の中にはおしるこ、桃菓子、羊羹、カステイラなどを食べた記述がたくさん出てきます。
特におしるこが大好きだったようで、虫歯で稽古を3日間休んだことなども書いてあります。
伊庭八郎は「甘党の小天狗」でもあったようです。
「伊庭八郎征西日記」は国会図書館デジタルコレクションの「維新日乗纂輯第五」で誰でも読むことが出来ます。
もっと楽しく読みたいという方は幻冬舎新書の山村竜也著「幕末武士の京都グルメ日記」-伊庭八郎征西日記を読む- もあります。
こちらもおすすめです。
ぜひ甘党の剣士に読んでもらいたいです。
NHK朝ドラ「ブギウギ」の主役福来スズ子のモデル笠置シヅ子さんは私が以前住んでいたアパートの隣りに大きな家を構えていました。
時々、広い庭に出てきて水を撒く姿をお見かけしましたが、当時はこれほど有名人だったとは知りませんでした。私の世代よりもひとつ前の世代ですかね。
「ブギウギ」福来スズ子役の趣里さんはキャンディーズの伊藤蘭さんの娘さんです。
ドラマを観ているとやはり伊藤蘭さんがダブります。
また歌手の宇多田ヒカルさんの母親は藤圭子さんです。宇多田ヒカルさんの声の中にはまさに藤圭子さんが生きています。
お二人の親の活躍していた時代を知っている私は二重に楽しませていただいています。
遺伝子を継承するというのはすごいことですね。
武術の世界も親から子に継承されてその技を引き継ぐ例が多くみられます。
もちろん既得権益や遺伝子の継承という面はあると思います。
でも果たしてそれだけでしょうか?
武術で一番難しいのは「立つ」「歩く」と言った基本的な身体操作です。
本来、誰でも出来ることです。しかし誰でも出来るからこそ難しいとも言えます。
その理由はみんなが出来る「立つ」「歩く」と古武術の「立つ」「歩く」が違うからです。
古武術習得ためにはこれまで使い続けて既に体に染み付いている「立つ」「歩く」を一旦捨てなければなりません。
その捨てる稽古に意外と時間がかかります。昔と時代や生活、服装なども違う訳ですからなおさらです。もしかしたらここが一番難しいと言えるかもしれません。
しかし武術家の親に育てられた子は物心ついた時から親の指導を受けることが出来ます。まだクセのついていない白紙の時期に継承が始まります。
さらには生活の中で親の「立つ」「歩く」を見て育ちます。
子は親を見て育ちます。そして親のマネをします。
武術家の家に生まれた子はその遺伝子の継承ともに生活の中で常に稽古し続けてきたとも言えます。
歌舞伎、日本舞踊なども親から子に継承されていく例が多いのも同じ理由からかもしれません。
なんだか羨ましい気もしますが、継承者には私たちの知りえない苦悩もあるのだと思います。
私が知っている武術家の方々にも世代交代がすすんでいるようですが、その継承者の方々にはぜひ頑張っていただきたいと思っております。
高校の剣道部顧問が居合の体験稽古中に真剣で生徒にケガをさせたというニュースがありました。
剣道部顧問は70歳。居合道6段だそうです。
顧問は「まさか(自分の刀が)当たるとは思わなかった」と・・・
しかも「間合い」の稽古の最中に顧問の刀が生徒の太ももに刺さってしまったそうです。
「間合い」の稽古が必要だったのは顧問の方だったようです。
そもそも、それ以前に真剣や模造刀で間合いの稽古をするなどとんでもないことです。
さらに体験稽古中の不慣れな生徒を相手にしていた訳ですから真剣や模造刀で指導すること自体が顧問の過信と安全面に対する認識の甘さと言わざるをえません。
もちろん居合など古武術(古武道)の稽古はケガをするリスクを伴います。それは一般のスポーツと同じです。
スポーツでも水泳の飛び込みや柔道の乱取りなどでは大きなケガをする事例も少なくありません。
それでも水泳は水中からのスタートを指導するなどの対応をとったり、柔道ではスプリング効果のある畳を使ったり、技の安全性などに一定の配慮があります。
また剣道も竹刀や防具などを使用することで安全面に配慮しています。
果たして古武術(古武道)の稽古は安全面にしっかり配慮されているのか?
時々、古武術(古武道)を稽古する人たちに安全に対する鈍感さを感じることがあります。
もしかしたら気が付かないうちに私自身もそうなのではないか?
慣れてしまってはいないか?
常に自分に問いかけています。
昨年、日本スポーツ協会のスポーツコーチングリーダー資格を取得する際にスポーツの安全管理を学びました。
その時に古武術(古武道)を稽古する私たちこそ安全を考慮しつつ古武術の魅力を減じることのない稽古を工夫をする必要があるのではないかと強く感じました。
「他山之石、可以攻玉」
こうした事故が起きるとどうしても簡単に禁止、規制の方向に傾きがちですが、このことをキッカケに伝統文化や稽古の面白さを安全性と両立させる工夫をすすめていきたいと思っています。
ちなみに静稽会では間合いの稽古には必ず袋竹刀か木刀を使っています。
そしてこれまで設立以来13年以上、安全に稽古を続けています。
これからも楽しく稽古を続けていきたいと思っています。
この度、市川市から公認スポーツ指導者(Ichikawa City Official Sports Coach)の認定をいただきました。
静稽会は2011年1月から13年以上市川市で稽古を継続してきました。
また昨年、市川市からの依頼を受けて5月に居合講座を開催しました。
講座終了後にその講座参加者や抽選にもれて参加出来なかった方々の有志が集まって初心者居合稽古会が出来て現在もその稽古会の講師を継続しています。
市川市公認スポーツ指導者の認定については「居合はスポーツか?」と多少の戸惑いもありました。しかし認定されることで居合初心者の方、体力に自信のない方、高齢の方なども安心して稽古に参加していただけるようになるのであればと私の考えは一旦横に置くことにしました。
さらにこの市川市公認スポーツ指導者の認定には公益財団法人日本スポーツ協会のスポーツコーチングリーダーの資格が必要となるため、講義、実技、テスト、実習レポート提出を経て資格を取得しました。
講義、実技内容は多岐に渡り、私よりも若い様々なスポーツ指導者の方々と一緒にコーチング学、スポーツ事故の対処方法、トレーニング理論、栄養学、医学知識、救急処置、ジュニアや高齢者への指導、多様性対応、コーチング実技、ストレッチ実技、筋トレ実技などを学びました。
これらは居合に限定されることなく今後あらゆる場面で役に立つだろうと思っています。
特に体力や柔軟性が十分でない方々の稽古にはこれらの専門知識が役に立つはずですし、稽古持続のためのコーチングや万が一の事故の時に慌てないための事前知識や対応力は必須です。
これからも静稽会は楽しく稽古が継続出来る態勢で一緒に稽古してくれる方々をお待ちしています。
私の古い友人のSくんは会社で資産運用部門を率いていた人です。大変優秀な彼は今でも別会社の役員として活躍しています。
そんな彼はお金の動きと星の運行を結びつけて歴史を語り、世界の行末を見つめるということを趣味にしています。どこまでも趣味の世界です。
彼の話は広大、深淵でかつとても面白い!
彼は企業向けに真面目な経済などの講演をすることも多いのですが、オファーを受けて真面目な話とは別枠で星の運行と歴史、経済、世界の潮流などの話をすることもあります。
時折そんな彼と飲みながらどうでもいい「サミット」を開催します(笑)
資産運用の世界を博打とひとくくりにして毛嫌いする方もいますが、それは資産運用の世界をよく知らない人です。
また資産運用=金儲けといった短絡的な捉え方をする人も同じです。
そんなに単純な世界ではありません。
そんな資産運用の世界をさらに遥か遠くにある星の動きと大河のような歴史や世界の趨勢に結びつけて楽しむところが彼の真骨頂です。
NHK番組「チコちゃんに叱られる」のチコちゃんは正解を出した人には
「つまんね〜やつだなあ〜」
と言って拗ねてしまいます。
正解の人はつまらないのです。
同じ居合形をやっても人によってその形は大きく違います。上手下手、速い遅いだけでないところが居合形のおもしろいところです。古典落語に似ているかもしれません。
もちろん武術としての観点が原則ですが、そこにとどまらず、形の滑らかさ、艶やかさ、精妙さ、ゆらぎ、おおらかさ、凄み、奔放さなど、さらに個々人が放つオーラ?さえも含めて捉えるともっと奥深くおもしろくなります。
機械のような正解はおもしろくありません。
もしかしたらおもしろさの先には武術的に有効なこともあったりして・・・
2022年7月2日付けの静稽録「役に立たないもの」にも同じ高杉晋作が詠んだ以下の句を載せました。
おもしろきことのなき世をおもしろく
住みなすものは心なりけり
私が子供の頃と今とでは日常生活がまったく違います。
昔は掃除、洗濯、炊事、家事全般、移動手段などの体にかかる負荷が今とは比べものになりませんでした。
身近なところでも座敷の立ち座り、布団の上げ下げ、雑巾掛け、和式トイレ、布オムツ・・・どれをとっても体に負荷がかかることばかりです。
現代は負荷が少なくなった分、日常生活だけで体が鍛えられることはほぼなくなりました。
刀を差していた時代と比べればなおさらです。
これまで「筋トレ不要の居合」と言ってきた私ですが、今は少し考えが違います。
あくまでこの「筋トレ不要」は昔の人の日常生活で培われた筋肉と柔軟性があるということが前提になります。
昨年5月の市川市居合講座以来、その時の受講者を中心に初心者稽古(基礎稽古)を月2回継続実施してきました。みなさん50歳以上です。
既に10ヶ月ほど経ちました。
当初は何をどの程度の強度でやればよいのか?どれくらいの時間やったらよいのか?など探りながらのスタートでした。
初回の皆さんの動きを見て、すぐに関節の可動域や必要最低限の筋力が足りないと感じました。そこで稽古時間の半分以上をストレッチと基礎的な筋力アップに当てることにしました。
どうやったら居合稽古に必要な筋力と柔軟性が鍛えられるのか?
私自身も心身の医学的知識やケガをしないための筋トレやストレッチの実技を深く学ぶ必要に迫られました。
そのことは結果として公益財団法人日本スポーツ協会のスポーツコーチングリーダー資格取得という形になりましたが、そもそも「居合はスポーツではない!」「武士は戦う前に準備運動などしない!」と言っていた私が・・・
世の中なにがどこでどうなるかわからないものです(笑)
ただ今でも居合はスポーツとは思っておりません。
最近ではみなさんようやく居合をやるための基礎体力や柔軟性も出来てきたので、木刀とプラスチック鞘を使った居合稽古に入りました。
これまで多くの初心者を見てきましたが、日常的に運動をしてこなかった50歳以上の方はほとんど基礎体力と柔軟性がありません。
蹲踞や跪坐や正座が出来る、座礼が出来る、正座から正しく立ち上がれる、木刀が振れるなど、居合に最低限必要な基礎体力や柔軟性を待ち合わせていなければ居合稽古は始められません。
さらに居合初心者はどうしても体育の授業で習った体の使い方をします。
実は体育で習った体の使い方と居合の体の使い方には大きな違いがあり、そのまま無意識に居合の動きをやってしまうと体に無理な負荷がかかってしまいます。
そもそも学校体育で習った体の使い方と居合の体の使い方では同じような動きでも使う筋肉が違ったりします。当然、使う筋肉が違えばパフォーマンスも違ってきます。
さらにベースとなる筋肉全般が衰えている人がいきなり居合稽古を始めると故障を起こす可能性もあります。これはスポーツでも同じです。
初心者稽古(基礎稽古)では体を痛めないために慣れるまで準備期間を設けて最低限必要なストレッチや筋トレを実施してきました。
本格的な稽古はいよいよこれからです。
優しさにひとつ気がつく×でなく⚪︎で必ず終わる日本語 俵万智
最近の若者はLINEの文章に「。」「、」(句読点)をつけたがらないらしい・・・
なんで?
若者は句読点を付けられると自分の責任を追求されていると感じたり、圧を感じるんだそうです。
なんと私が若者に送ったLINEメールは詰問に近いニュアンスと受け取られていたのか・・・?
早速、若者から私に送られたLINEメールを確認してみました。
確かに・・・句読点は無い・・・
そうだったのか〜
若者はLINEを「会話」だと思っているのに対し私たちは「文章」だと思っている違いなんだそうです。
「会話」だと思っているLINEに「文書」で応じることは、普段着の若者の中に濃紺スーツ姿のオヤジが紛れ込む感じか?
それとも若者の内輪の飲み会に参加したオッサンがずっと敬語で話す感じか?
あまり例えがうまくいきません(笑)
でもそれって違和感こそあれ悪いことか?
俵万智さんが短歌で詠んだように、そもそも句読点は読みやすくするための工夫で相手に対する「優しさ」なんだからいいじゃあない?とも思ったりします。
年長者は若者とは時代感覚も価値観も慣れ親しんだテクノロジーも違います。それは当たり前のこと。むしろ違いがあるからこそ良いのでは?
加えて妙に若者に媚びる年長者もどうかと・・・
若者に共感や好印象を持たれることばかり考えている年長者はかえって若者、年長者両方から共感されないような気もします。
ちなみに目上の人に出す挨拶状などには句読点をつけると失礼だと言われていますので・・・若者、年長者それぞれそのままでいいのではないかな?
稽古はもちろん〇で終われる方がいい!
演劇などでお酒を勧める場面によく于武陵の漢詩「勧酒」が出てきたりします。
勧 君 金 屈 卮
満 酌 不 須 辞
花 発 多 風 雨
人 生 足 別 離
君に勧む金屈卮
満酌辞するを須いず
花発けば風雨多し
人生別離足る
こんな漢詩は知らないという人も井伏鱒二の訳は知っていると思います。
最近では初音ミク「さよならだけが人生だ」(伊東歌詞太郎作)で耳にしたことがあるかもしれません。
(井伏鱒二の訳)
この杯を受けてくれ
どうぞなみなみつがしておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ
素晴らしい訳です。
私は基本的に家でお酒は飲みません。
「ウソでしょ〜!」と言われますが、本当です(笑)
お酒が好きというよりも飲み会が好きなのかもしれません。
みんなと一緒にお酒を飲む時はいつもこの「勧酒」を思い出して杯を交わします。
静稽会はこれまで総会と新年会、稽古総見と反省会をセットで公式行事としてきましたが今年の総会(新年会)を最後に飲み会だけ公式行事から外すことにしました。
今後は静稽会が店などを予約せずにそれぞれ飲みたい人が集まってフリーで行くことになります。
飲み会が無くなることはないと思っています(笑)
ちなみに井伏鱒二は太宰治の師匠です。
どうもこの師弟はお酒が大好きだったようですね。2人にはお酒にまつわるエピソードがたくさんあります。
振り返るとお酒にまつわるエピソードほど記憶に残っているかもしれません。
最近では雇用延長もあり65歳が完全リタイアというサラリーマンも多いかと思います。昨年、同い年の連中からゾクゾクと飲み会メールが来ました(笑)
「これから何やったらいいかな?」
「知るか!」
また経営者の方には定年はありませんが、それでも体力、知力の限界はいつか必ずやって来ます。
リタイアすると心や体を病む人が多いと聞きます。
リタイアをきっかけに「不安」と「孤独感」にさいなまれて「うつ」や「病気」になってしまった・・・よく聞く話です。
2018年1月28日に「孤独担当大臣」という題で静稽録を書きました。
「孤独」は今でも大変な社会問題です。だいぶ前ですが渡辺淳一氏が「孤舟」という小説を書いてました。仕事熱心な方は身につまされたのではないかと思います。
「現役」時の地位が高ければ高いほど、その地位にいた時期が長ければ長いほど降りる時の落差は大きく感じるそうです。
山登りは下山の時が一番危険だと言われています。
登った山はいつか降りなくてはならない、ならば出来るだけゆるやかに降りたいものです。いきなり崖から落ちると大怪我をしてしまいますから。
また「山へ登りっぱなしのことを遭難というのだ」と心理学者のユングが言ったそうです。「遭難」が一番他人に迷惑を掛けます。
実は仕事だけでなく、趣味でやっているスポーツなどにも思わぬリスクがあります。
リタイアを機会に生きがいと体力維持を求めて意気込んでスポーツなどを始める方は多いと思いますが・・・
競い合うスポーツでは負けるようになると面白くない、自分が脱落したような気分になる・・・
チームプレーではチームに迷惑を掛けてしまう、病やケガで休みがちになると元気に続けている仲間と比較して疎外感を感じてしまう・・・
そんな仕事のような価値観に囚われたままでは楽しくないし長続きしません。
人とは比較せず、楽しく、静かに、自分のペースで稽古することが肝要です。
「放てば手に満てり」
武術の極意にも通じるのではないかと思っています。
2020年3月24日の静稽録に「水目釘」という題で目釘のことを書きました。
そもそも目釘は斬る際の衝撃を抑え、刀身、柄、ハバキなどへの負担を減らす役割をしています。一般的には竹を使います。
竹には適度な粘りがあるので、折れにくく、またもし折れても竹の繊維が残り刀身が抜けにくくなります。
竹にもいろいろな種類があります。
現在の私の目釘は黒竹(クロチク)ですが、この黒竹は最近、植物の専門家である静稽会のMさんから譲っていただいたものです。
実は以前にもMさんから目釘を作る竹を譲っていただきました。
前の刀は重量級だったことから目釘穴が大きく一般的に目釘に使われる真竹では合うものが作れませんでした。
困っているとMさんから孟宗竹の根(希少)はどうかと譲っていただきました。
孟宗竹の根は厚さもあり、ものすごく硬くて削り出すのに苦労しましたが、重量のある刀にはピッタリでした。その刀は今も試斬刀として使っています。
それに対して黒竹は一般的には細身なので目釘にするには少し厚みが足りず難しいのですが、特別に厚みのある部分の黒竹をチョイスしていただきました。
黒竹は孟宗竹の根よりも柔らかく粘り気がある感じがします。
目釘穴に優しくフィットしていい感じに刀身を固定してくれます。
油を染み込ませて使っています。
目釘の材質には他にもいろいろあります。
以前の静稽録では「水目釘」を以下のように紹介しました。
「多数のナメクジを竹の筒の中に入れて、よく突いて混ぜ合わせるそうです。そうすると固まるので、それを竹から出して天日で乾燥させると石のように固くなり、これを目釘穴に合わせて削って使うそうです。唾を吹き込むと全く抜けなくなると言われています」
水目釘は慶応元年12月刊「劔甲新論」(作者 鈴木鐸)の中で実戦に適していると書いてあるのですが、ちょっと信じがたい・・・
しかも水目釘には独特のヌメリがあるそうです。
あ~絶対に使いたくない!
調べてみると鉄(生鉄=よく鍛えてない鉄)、鹿の角、鯨の髭、干したカタツムリ、革太鼓用の革を漆で固めた目釘などもあるそうです。
刀にもよりますが目釘は硬さだけではなく適度に粘度のある材質が良いみたいです。
さらに目釘穴はいくつが良いのか?
通常は一つです。私の差料も一つ。
目釘穴が二つある茎(なかご)は見たことがありますが・・・
目釘は二本あるのが良いとも聞いたことがあります。というのも実戦では刃以外では柄の破損が多いと言われていて、激しく使用する場合、目釘一本だとどうしても柄の中で茎が暴れてしまうということらしいです。
島津家久が鎖帷子を着た兵を七人斬ったという刀の刀身には目釘穴は縦に三つ、その下に左右へわかれ二つついていたそうです。
すごい!
1月14日に静稽会公式行事の一つ総会が開催されました。
総会は昨年度の活動報告、財政報告がメインですが、新年会も兼ねています。
今年は稽古後に実施しました。
海外の仕事が多いH坂さんとは本当に久しぶりにお会いすることが出来ました。
稽古から参加してくれたH坂さんから無双直伝英信流山内派の「浮雲」を教えて頂きました。
昨年、私が稽古総見で演武した夢想神伝流の「浮雲」とは同じ名前で一見同じ形のようですが、中身はずいぶんと違います。
どこをどう斬っているのか?
右手の意味などを聞いてとても新鮮でした。
またいつも交流の労をとってくれるS原さんからはフィリピン武術の動きを教えて頂きました。
S原さんの動きは最短で視覚外から攻撃が飛んできます。
独特な刀捌きはとても面白い!
さらに新年会後はお茶に切り替えて翡縁会の先生方からも基礎稽古や試斬のやり方、さらには「啐啄の機」のことなど貴重なお話を伺うことが出来ました。
こうした交流はこれからの稽古の中身を濃くし、さらに楽しくしてくれます。
あれもやってみよう、これもやってみようとワクワクしてきました。
翡縁会の先生方、S原さん、H坂さん本当にありがとうございました!
そして総会開催に尽力いただいた方々、ご参加いただいた方々に感謝いたします。
「居合をやると姿勢が良くなりますか?」
昨年、居合講座を開催した時にこんな質問を受けました。
「みなさんが考える「良い姿勢」とはどんなものですか?」
と問い返しました。
どうしても学校で習った「良い姿勢」、いわゆる「気をつけの姿勢」をイメージしている方が多く、そこへ向かってスタートすると全く話が噛み合いません。
誤解を恐れずに言えば私は「良い姿勢」は「楽な姿勢」だと思っています。
ただし「短時間の楽」ではなく、「長時間の楽」です。
坐禅を組んで学んだ姿勢は正に「楽な姿勢」でした。
緩んで、軸を立てて坐る以外の力が入っていない姿勢です。
立っている時も同じです。
これは居合の姿勢と共通しています。
こう言うと「楽すると逆に姿勢が悪くなるのでは・・・」と言う人がいます。
力が入った辛い姿勢では長くは坐れ(立て)ません。
何か大事な行事の時だけ我慢して非日常的な「良い姿勢」を手に入れたいというのであればそれでも構いませんが、私の考える「良い姿勢」は日常的に「良い姿勢」です。
いつでもどこでもどんな場合でも維持出来る「良い姿勢」です。
常に「良い(楽な)姿勢」を保つためには基本的に骨を重力に対して無理なく積み上げるイメージが必要です。さらに骨のバランスを支える筋肉もある程度は必要になります。非常に簡単に言ってしまえば体幹です。
こうした「良い姿勢」ならば居合を稽古することで手に入れることは可能です。
居合稽古で手に入る「良い姿勢」は力みの無い、身のこなしが美しい、スキの無い姿勢です。そしてそれは健康に資する姿勢でもあります。
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします!
昨年は市川市からの依頼で居合講座をやらせて頂き、その流れで静稽会とは別に初心者限定の稽古会を立ち上げました。その後半年間、初心者の方たちと稽古を続けてきて思うところが多々ありました。
当初は関節の可動域が狭かったり、基礎体力が無いことから最も基本的な動きが出来ないということに直面しました。
例えば木刀が重くて持ち続けられないという方もいました。他にも蹲踞が出来ない、正座が出来ないなどなど。
しかも初心者の会は月2回のペースです。
こうした方々にどう向き合ったら良いのか?
2019年2月18日付け「静稽録」に「経験年数」という題で合気道を10年やっているという人の話を書きました。
ただし10年とは言っても月1回ペース。しかも途中ブランクもあるらしい・・・これをどう考えるか?
その時のわたしは「どんな武術でも「月1」では何年やっても身につかないのではと思います」とバッサリでした。
今は少し違います。
むしろ月1回を10年続けているのはある意味凄いと(笑)
最近、あちこちに出来ている「choco ZAP」
スキマ時間にサクッと通えるスポーツジムです。
初心者でも簡単に使えるマシーンを置いているそうでトレーナーなどはいません。
「1日5分のトレーニング」「普段着のままでOK」などのキャッチフレーズで結構流行っています。
また女性のみを対象にした「カーブス」というのも盛況なようです。
こちらも「気軽なフィットネス」が売りです。
健康のためや体力の衰えをなんとかしたいという人たちは相当数います。
しかし本格的なトレーニングは体力的にも金銭的にも時間的にも無理・・・choco ZAPやカーブスはそんな人たちの潜在的ニーズをうまく吸い上げています。
一方、敷居が高いと言われる武の世界です。
やってみたかった武の世界に意を決して「入門」すると、偉い「宗家」「師範」「先生」が耳慣れない「専門用語」を使って一方的に教えを垂れ、かつ「道」まで説く・・・そこに入門者の方々の声はほとんど届きません。
おそらくそんな武の指導者たちはchoco ZAPやカーブスなどを鼻で笑っていると思います。
我々をあんなお手軽なものと一緒にするなと。
私はchoco ZAPやカーブスのシステムに全面賛成している訳ではありません。
「お手軽」「簡単」なものは所詮、それなりの結果しかもたらさないだろうとも思っています。
しかし世の中には本格的にやりたいけど出来ない事情を抱えている人はたくさんいます。みんながみんなすぐ本格的な取り組みが出来るわけではありません。
でもその時の「やってみたい」という気持ちは大切です。
「お手軽」「簡単」で始めても続けているうちに、体力や環境や事情、さらには気持ちが変わって、もしかしたら本格的な取り組みが出来るようになるかもしれない。
100人のうち1人でもそんな人がいれば十分存在価値はあるのではないか?
また武術の稽古は神速の動きや戦うことが目的の人たちだけのものではないのではないか?
そんなことを考えるようになりました。
「月1」をバッサリと斬り捨てていた自分はまだまだだなと思っています。
今年最後の稽古も無事に終わりました。
最近では稽古自体が無事に終わる毎にホッとするようになりました。
昔は感じなかったことです。理由はいろいろです。
年の瀬に少し大きな流れを確認しておこうと思います。
普段の稽古にはあまり関係ないかもしれませんが、こんなことを書いておくのも面白いかもしれません。
日清戦争の勝利に沸き立つ1895年(明治28年)4月17日(日清講和条約調印日)に「大日本武徳会」という武術復興を目的とした団体が設立されました。
「大日本武徳会」の中には多くの剣術流派があったそうです。
神道無念流、天自流、直心影流、神陰流、一刀流、小野派一刀流、無刀流、武蔵流、聖徳太子流、北辰一刀流、無外流、心形刀流、浅山一伝流、鉄仲流・・・
当然、一つの団体の中にこれだけの流派が林立すれば現場ではいろいろな問題が出てきます。
そこで形を統合しようということになります。
明治39年、剣術は独自の統合剣術形「武徳会剣術形(天・地・人の形)」を制定しますが・・・これがなかなか上手くいきません。
まあそうでしょうね。
そこでその剣術形は再度練り直しが求められます。一旦、大正元年に「大日本帝国剣術形」が出来ますが、これもなかなか問題が多くて定着しませんでした。
大正6年に追加、昭和8年にはさらに増補を行いなんとか「大日本剣道形」としてようやく落ち着きます。
気が付いたでしょうか?
気が付かない方は続きをお読み下さい。
一方柔術は剣術と同様に明治39年に古流柔術諸派の形を統合した「武徳会柔術形」を制定します。こちらはそのまますんなり落ち着きます。
嘉納治五郎氏の力に依るところが大きかったようです。
内務官僚であり無刀流の遣い手であった西久保弘道は大正8年大日本武徳会副会長兼武術専門学校長に就任します。
ちなみにこの西久保弘道は千葉県市川市に住み、「弘道館」道場を作っています。
西久保弘道は「柔術」「剣術」「弓術」を「柔道」「剣道」「弓道」と改称しこの三つをもって「武道」としました。その他を「武術」あるいは「古武術」としますが、まだ排除はされていません。
空手術や合気武術などもこの中に入っていました。
昭和17年に政府は財団法人「大日本武徳会」を厚生、文部、陸軍、海軍、内務大臣の管轄する外郭団体に改組してしまいました。会長は東條英機(内閣総理大臣兼陸軍大臣)です。
種目も「剣道」「柔道」「弓道」「銃剣道」「射撃道」の五つとされて、その他は完全に排除されてしまいます。
そして終戦後GHQにより「大日本武徳会」は解散。
軍事色を一掃するということから「武道」は全面的に禁止されます。
剣道は唯一の活動基盤であった「大日本武徳会」を失い、組織的活動も禁止させられたのに対して、柔道は講道館の解散を免れて細々ではあるものの活動は出来たそうです。連合国将校の中に愛好者が多かったからとも言われています。
その後、剣道は昭和25年「全日本撓(しない)競技連盟」が結成されます。「撓」とは袋竹刀のようなものだったそうです。「撓」「競技」という名乗りに涙が出ますね。
その特徴は武道色をできるだけ払拭してスポーツ化したこと。これにより「軟式剣道」などと言われながらも新しい「スポーツ」として再出発します。
そして昭和29年にようやく「全日本剣道連盟」に統括されて、今の剣道につながります。
柔術が早くから講道館「柔道」に統一されたことで流派色が消えた反面、群雄割拠でなかなかまとまらなかった剣道界には終戦まで色濃く剣術流派色が残っていたそうです。また排除された古武術であった剣術流派の中には武徳会種目から排除されたがゆえに細々と生き残ったものもあったのではないかと考えたりします。
戦争に翻弄された「道」と「術」ですが、さてどっちが良かったのか?
ちなみに「大日本武徳会」は昭和28年に任意団体として設立され、平成24年に一般社団法人となってます。
来年も楽しく、静かに稽古したいものです。
良いお年をお迎えください。
初めて「少林寺気功」というものをご指導いただきました。
嵩山少林寺認定 豆澤慎司師範のご指導です。
三調気から始めて、少林寺四段功(通天採気、陰陽回転、左右沖拳、馬歩虎掌)そして少林寺養生六式(予備式、左右混元、水中撈月、頂点立地、天人合一、抱気貫頂法、大周天循環法)
初めてなので最初はなかなか呼吸と動きが合いません。それでも何回か繰り返すうちに少しずつ無理なく重なっていきます。
さらに余裕が出てくると・・・
あ〜これって何かに似ているなあ。
「ラジオ体操第一~♪」
もちろんテンポは違います。
そういえば翡縁会の方々は稽古前にラジオ体操をやっているとか。
そうか〜なるほどねぇ
通天採気、陰陽回転
さらに進むと、ん〜これは?
ヨガの「太陽礼拝」
通天採気、頂点立地、天人合一
「太陽礼拝」はもう少しダイナミックですが、動きも呼吸もよく似ています。
そして最後に仰向けになってリラックス・・・
・・・これはもう完全にヨガのポーズです。
「屍のポーズ」
これは本当に気持ちがいい!
ヨガをみっちりやった最後の最後に全ての力を抜いて死にます(笑)
死んで整って再生します。
終了時に豆澤師範に質問してみました。
「最後のも少林寺気功ですか?」
これは少林寺気功というよりも、やはりヨガの「屍のポーズ」だそうです。
実は豆澤師範はインド政府公認のヨガインストラクターでもあります。
少林寺気功だけにこだわらず、いいものは取り入れているそうです。
相撲の四股や「虎ひしぎ」
左右沖拳、馬歩虎掌
少林寺気功でも、ラジオ体操でも、ヨガでも、坐禅でも良いものは取り入れてみる。そういう柔軟な姿勢を大切にしたいと思っております。
前のインフルエンザでは決して大袈裟ではなく死にかけました。病院に行くタイミングが遅れてとんでもなく酷い状態になってしまいました。インフルエンザをなめてはいけません。
そんな私が久しぶりにインフルエンザに罹りました。
そしてコロナ禍以降の「発熱外来」が簡単でないことも知りました。
鼻の奥に長い綿棒のようなものを突っ込まれ、痛みに耐えた結果、コロナは陰性、インフルエンザはA型と判明。
処方された薬が多いことにも驚きました。
「インフルエンザ症状を軽減する薬」
「痛みや熱を抑える薬」
「咳を鎮める薬」
「痰の切れをよくする薬」
「アレルギーを抑える薬」
「気管支の収縮を抑える薬」
なんと6種類。
「これ、本当に全部一緒に飲んで大丈夫なんですか?」
薬剤師は「大丈夫です」と私の方を見向きもせずに答えてました。
怪しい・・・(笑)
昔はこんなに多くの薬が処方されたことはなかったような気もします。それに私はなにも申告してないのにアレルギーの薬が出されてる・・・先回りの処方?
ささやかな抵抗でそれぞれの薬を少し時間をずらして飲むことにしました。効果があるかどうかはわかりません。
加齢とともに症状の辛さはより大きく、回復に要する日数はより長くなります。好むと好まざるとに関わらず生きることは闘うことだと実感させられました。
それでも病との向き合い方にはいろいろあって、時には斬り込み、時には受け流し、時には引き込み、浦波に漂う浮舟のように闘う術や呼吸は「稽古」してきたつもりです。
順調に快方に向かっております。
咳のおかげでしっかりと腹筋も鍛えられました(笑)
休んだ足腰は稽古で再鍛錬します!
静稽会のHPを立ち上げてから、静稽録には武術の話だけではなく、検索で引っかかるような時事ネタ、新しい言葉を盛り込もうとの思いで書き続けてきました。
もちろん多くの人に武術の楽しさを知って欲しい、一緒に楽しく稽古してくれる方に来て欲しいとの思いからです。
しかし最近になって「そもそも若い人たちはHPなんか見ないんだよね〜」と言われ、そんなものかと思う自分の感覚の古さに愕然としました。
最近、入会した若いMさんはテレビは観ないそうです。そもそもテレビが無いとか。
若い人はテレビよりもTikTokやYouTubeで映像を楽しむ人が多いみたいです。
静稽録には意識的にテレビネタも多く盛り込んでいましたが、そもそもテレビを観ないとなると無意味だったようです。まあそもそもHPを見ない訳ですからもうどうにもなりませんが。
静稽会HPを様々な観点からアドバイスしてくれるIT専門家のMYさんには「これからはSNSを駆使するしかないです」とアドバイスされましたが、そう言われてもどうしてよいものやら・・・
最近、古文書の読み方講座に通いはじめてひとつ気がついたことがあります。
古文書を読むのにあたって、当時の社会の仕組みや身分制度、暦、単位、文書などの決まり事を知らないと仮に文字が読めたとしても意味が理解できないのだと。
さすがに静稽録の文字自体は読めるでしょうが、今時の人たちからすれば静稽録は古文書を読んでいるような感覚なのではないか?
昔は「10年ひと昔」と言われました。最近の時代のスピードは「5年ひと昔」くらい?そう考えると静稽録を書き始めてから25年ほど経っている感覚です。
25年も経てば社会を取り巻く環境、技術、人の意識は激変します。
また、その感覚で言うと私は130年前の人ということになります。130年前と言えばまだ明治天皇や徳川慶喜、勝海舟も生きていた時代です。若い人たちからすれば私はそんな時代の人という感覚?
そして130年前の人が書いた静稽録・・・
どうも静稽録は蔵に眠った「古文書」となっているのかもしれません。
せめて「古文書」静稽録を発見した方、解読できる方に読んでいただければ幸いです(笑)
先日、私と同い年くらいの方とお話しする機会がありました。
その方は自転車(ロードバイク)が趣味だそうですが、周囲に止められているそうです。というのもこれまで自転車で三回も事故にあったからだといいます。
「私は交通法規は必ず守っているのになぜ・・・」とのこと。
よくよく話を聞くと、その方の乗っている自転車のタイヤの太さが25Cだというのです。
一般の自転車のタイヤの太さからするとかなり細めのタイヤです。
しかしその方は「25Cというのはロードバイクの標準です!」と言いきります。
確かにその通りです。
「しかし、その「標準」はロードバイクの「標準」であってあなたの「標準」ではありませんよ」・・・とは言えませんでした。
大変失礼ですが、その方の年齢、体形、身のこなしなどから推察すると、とても「標準」とは言えません。案の定、これまでマンホールの上で滑ったり、道路の隙間にタイヤを挟んだりして転倒したことがあったそうです。周囲がそのロードバイクに乗るのを止めるのもわかります。
そんな人と事故を起こしてしまった三人のドライバーに同情します。確かに交通法規は守っているのかもしれませんが、そんな自転車に乗った高齢者の後ろを走るドライバーは恐ろしくてたまったものではありません。
最近、金に糸目をつけず上級者用ロードバイクを買って乗り回している高齢者は多いように感じます。技量も体力も無い初級者が上級者用のロードバイクに乗って走ることがどれだけ危険なことか・・・
しかし、そんな私も以前に身の丈に合わない刀を購入したことがあります。
2尺5寸2分のやや長めの刀でかなり重さのある刀です。(それまで稽古に使っていた刀は2尺4寸2分でした)
しかし稽古でその新しい刀を使い始めるとどうにもいけません。せっかく購入したのにとの思いもありましたが、大ケガをしてからでは遅いと稽古での使用をあきらめました。それから7年間ずっと部屋の片隅で眠り続けていました。
ある日、使っていた2尺4寸2分の刀を修理に出さなければならなくなり、やむを得ず短期「代役」で「眠れる獅子」を出してみました。すると、なんともいい感じです。むしろこれまで使っていた刀よりも体に馴染む感覚でした。以降は今日までその「眠れる獅子」を使い続けています。
新しい刀は7年前の私の「技量」では使えなかったのだと理解しました。
もちろん、こうしたものには「慣れ」もあります。しかし7年後に刀を手にしてすぐに馴染んだことを考えると「慣れ」の問題ではなく「技量」の問題だったのだろうと考えています。
やはりその人の技量や体力に合った道具が「最良」なのだと知るべきです。
「ボールがキューッとくるだろ」「そしてググッとなったらウンッっと溜めてパッ」
「ミスター」長嶋茂雄さんは「ゴジラ」松井秀喜さんを指導した時、打撃のコツをこう表現したそうです。
笑い話のように語られますが、おそらくミスターの中では正しく表現されているのだと思います。ただ松井さんにちゃんと伝わったかどうかはわかりません。
武術の伝書と言われるようなものは奥義に達していない人が読んでも全く理解できないと言われます。
秘匿すると言う意図もあったとは思いますが、私的にはミスターが松井さんに伝えた「打撃のコツ」のような感じではなかったかと思っています。
普段、師匠を感じながら稽古を積み重ねていき、最後の最後のところは口伝、もしくは師匠と弟子との手合せ。そして師匠は弟子が奥義に達したと判断すれば伝書を渡す。伝書に書かれていることは師匠と弟子が長年共にして来た稽古の集大成のはずです。
伝書には和歌や比喩で書かれていたり、簡単な人の絵や動物の絵で描かれているものもあります。おそらくそれで十分、と言うかそれでしか表現出来ないのだろうと想像します。
どこかで手に入れた伝書や巻物を後生大事にしている人もいるようですが・・・あまり意味があるようには思えません。
もちろん私は奥義に達しているわけではありませんが、今の段階でこれまで自分が習得したものを伝えようとした時にどんな伝え方になるのだろうかと考えたりします。
感覚やタイミングまで含めて丸々正しく伝えるのは大変難しいのです。
そう考えるとやはり究極は「拈華微笑」なのかもしれません。
「ニコッと笑いながらフワッと浮いてスーッスッと近寄ってゆるりと斬る」
ミスターならばこんな感じ?
わかってくれる人はわかってくれる・・・かも?
先日、稽古総見の写真を整理していて、ふと気が付いたことがありました。
自分の写真をしげしげと眺めてみると、左目の瞼が下がっている・・・
そう言えば静稽会のIさんは瞼が下がってきて見えにくくなってきたので、最近ついに手術したと聞きました。
「眼瞼下垂」というのだそうです。
原因は加齢です。眼瞼挙筋(上瞼を収縮させる筋肉)と上瞼をつないでいる挙筋腱膜が年とともに弱ってくるとか。
上瞼が下がって視界が狭くなってくるので運転などにも支障が出る場合もあるようです。
年を取ると運転には様々な困難が出て来ます。いないはずの蚊が飛んだり、見えないばすの光が見えたり・・・加えて瞼が下がって視界が狭くなる・・・
とうとう私にも来たか〜と気落しつつ、もう一度、写真をよ〜く見てみると・・・ん?何かに似ている・・・
顔がこわい・・・
いやいやそういうことじゃあなくて(笑)
不動明王の目に似ている・・・
不動明王の眼は「天地眼」というそうです。
右眼を天に向けて左眼を地に向けています。上から下まで天地の全てを見渡していて、左眼で災いを退け、右眼で善を保つことを表しているそうです。
優秀なサッカー選手はグランド上で見える視界は2Dの世界でも、スタンドから見たような俯瞰図を瞬時に3Dで頭の中に描くことが出来るそうです。信じられないようなロングパスやスルーパスを可能にしている能力で、まさに「天地眼」と言えるかもしれません。
私の場合も左瞼が下がって左眼が下を向いているようにも見えます。
これは不動明王の「天地眼」か?
なにしろ成田山新勝寺のご本尊であり、かの武田信玄、宮本武蔵も篤く信仰した不動明王ですから。
ありがたや〜と思ってそのことを細君に話したら
「あなたは両目とも小さいから見た目にはわからない」
だそうです(笑)
それに「天地眼」なんてとんでもない。
そんないいもんじゃあないとのお言葉を頂きました。
ハイ!おっしゃる通りでございます。
先日、流通経済大学スポーツ健康科学部 大学院健康科学研究科 黒岩純教授と酒席をご一緒する機会がありました。
この日は黒岩教授から教えを受けた様々なスポーツ指導者の方々と一緒に黒岩教授を囲んでの懇親会でした。私も黒岩教授から教えを受けた一人です。
黒岩教授の専門は「コーチング学」で実践でもラグビーのコーチなどをされています。
酒席も進んだ頃、黒岩教授からこんな質問を受けました。
「皆さんはスポーツ指導者からどんな言葉を掛けられたらうれしいですか?」
他の方々が考える中、私が最初に答えました。
「美しいと言ってもらえたらうれしいです」
「いい答えですね〜」
黒岩教授はいつもこう言います(笑)
絶対に相手の答えを否定しません。それがコーチングの鉄則だと教えて頂きました。
私は2019年3月27日付けの静稽録「力の武士(もののふ)」でこんなことを書きました。
「私の恥ずかしい経験ですが、中学生時代に柔道の試合で勝った際、うれしくて思わず応援してくれた友人に向かって軽いガッツポーズをしてしまいました。
試合後、顧問の先生に「君が勝ったことはうれしかったが、その後の態度にはガッカリした」と言われたことを今でもよく覚えています。」
美しい勝ちもあれば美しくない勝ちもあり、美しい負けもあれば美しくない負けもあることを深く心に刻んだ出来事でした。
その時の私は「美しくない勝ち」でした。
中学時代の苦い思い出はその後の勝ち負けのすべてに「それは美しいか?」という一言が加わることになります。
「試合には勝ったが、勝負では負けた」などと言います。
「試合」は終了しますが、「勝負」には終了はないというのが私の考えです。
それは勝っても美しかったか?
それは負けても美しかったか?
心の中で死ぬまで続きます。
最近、観ているドラマがあります。
テレ東BS「たそがれ優作」
「たそがれ清兵衛」はよく知っておりますが、こちらのは「優作」です。
主役は北村有起哉さん。好きな役者です。コワモテからダメ男まで幅広くこなせる役者さんです。
同じ役者だった父親の重荷を背負ってもがいている分、演技に厚みや奥行きが出ているような気もします。
ドラマの北見優作は冴えない中年52歳バツイチの役者です。
その優作が毎回女性とちょっといい感じになって・・・最後はフラれる(笑)
そして大森の通称「地獄谷」(山王小路飲食店街)のBAR「ともしび」でたそがれながら酒を飲む。
ママは坂井真紀さん。こちらもいい味出してます。
昼間は俳優 夜は酒場へと繰り出す日々
撮影が終わって訳ありの女性と実際にあるお店で美味しいものをいただき、いい感じになりそうなところでフラれる。お店の食べ物も美味そうです。
北村有起哉さんは場面場面で実にいい表情をします。男の下心や中年の侘しさが滲み出ます。
そしてダメ男なんだけれどちょっと色気もあります。だから少しだけモテる(笑)
時折、とても「色気」のある演武をされる方がおります。
「色気」というと少し違うかもしれません。
艶がある?霊気を感じる?妖艶?
美麗?端麗?
どれも違いますね。
でも言わんとするところは伝わると思います。
同じ形の演武をしても演武する人によって大きく変わります。
落語も同じです。
間や速さ、緩急、剛柔、凄み、哀しみ、枯れ、たそがれ・・・その人が纏うオーラ?
人生の積み重ねがジワジワと演武に染み出してくるように思います。
これは稽古だけではどうにもならないかもしれませんね。
南斗六星拳の1人「妖星のユダ」が同じ南斗六星拳「義星のレイ」の奥義「飛翔白麗」を見た一瞬、心を奪われて動けなくなるシーンがあります。
そんな演武が出来たらいいなあ。
「北斗の拳」を知らない方、ごめんなさい。
ちなみに「たそがれ優作」の主題歌はドレスコードの「最低なともだち」これもドラマをいい感じに彩ります。
先日、稽古総見が行われた門前仲町にある「すし三ツ木」が「たそがれ優作」第二話のお店でしたので、稽古総見直後に店の外観だけ見て「たそがれ」てきました(笑)
「たそがれ」も演武に影響するでしょうか?
ちょっと高そうな店でしたので「たそがれ」時ではなく、まずは深川稽古の帰りにランチでいただいてみたいと思っております。
稽古の楽しみにはそんなことも加えて良いと思います♪
Tさんが翡縁会のブログに稽古総見のことを書いてくれました。
TさんとはSさんを通じて知り合いになりました。
2017年6月25日稽古総見でTさんの演武を拝見しました。
2017年8月5日の静稽会田町稽古場でTさん、Sさんと一緒に稽古しました。
2018年6月3日の稽古総見でTさんの演武を拝見しました。
その時、お恥ずかしいことに私が稽古着を忘れたので、Tさんの稽古着をKさんへ、Kさんの稽古着を私に稽古着を借して頂き演武しました(汗)
2019年6月22日の稽古総見でTさんの演武を拝見しました。
コロナ禍もありしばらく間が空きました。
2022年7月23日年七社神社の翡縁会奉納演武の時にTさんにお会いしました。
その時はTさんは演武はされませんでした。
2022年10月15日Tさんは静稽会の江東区民まつりの演武を見に来てくれました。
そしてようやく2023年10月22日稽古総見、久しぶりにTさんの演武を拝見することが出来ました。
相変わらず武術が戦いであるということを思い出させてくれる迫力のある演武でした。
感動しました!
ぜひまた来年も見せてください。
ありがとうございます。
<翡縁会HP「稽古つぶやき」>
https://hien-kai.blog.jp/archives/23379539.html?utm_source=blogreaderoa
「君には才能がある!」
そう言われている人たちを横目で見ておりました。
若い頃、自分にはどんな才能があるのか?と悩んだ人は多いと思います。
「好きなこと」と「才能があること」、この二つが最初から一致している人は幸せです。しかし一致していない人の方が多いかもしれません。私もその一人です。と言うより才能があるのか?ないのか?それすらもわからないまま年を取りました。
考えてみれば私とは違って静稽会には才能を活かして仕事をしている人が多いかもしれません。
好きなことを続けられるのは幸せなことです。しかし生きていくためにはそれだけでは済まない人もいるわけで・・・
多くの人はそれほど好きではないけど人より上手く出来ることで食っていくというコースをたどります。
昔、こんなことを言った人がいました。
「好きなことは仕事にしたくない」
なるほど、そういう考えもあるのかと思いました。
①好きで上手く出来ること
②好きだけど上手く出来ないこと
③好きではないけど上手く出来ること
④好きでもないし、上手くも出来ないこと
だいたい①が難しい場合には③を推奨されます。
「好きこそものの上手なれ」の言葉もありますが、「下手の横好き」とも言います。
普通は②は仕事にしない方が良いと言われます。それは仕事ではなく趣味にする方が良いと・・・現実的な選択です。
そして③は続けていればいつか①になる可能性もあります。
まあ趣味にしても落語の「寝床」のようなことになると周りが迷惑しますが(笑)
そして意外に④という方も多いかもしれません。
難しい問題です。
また才能というものはなかなか自分では気が付かないものだそうです。
「続けられることが才能だ」
という人もいます。
さらに「才能が枯れると形式が始まる」
という言葉もあります。
いつも的確な言葉で表現される翡縁会のでんこさんがブログで稽古総見のことを書いてくださいました。
二つの言葉と共に丁寧に考えてみたいと思います。
<翡縁会HPブログ>
https://hien-kai.blog.jp/archives/23349797.html?utm_source=blogreaderoa
翡縁会の多々良先生が翡縁会HP「稽古つぶやき」に稽古総見の感想を書いてくれました。
稽古総見後の懇親会では特に初参加最年少Mさんとベテラン最高齢Iさんの演武が素晴らしいとお褒めの言葉もいただきました。
最年少Mさんの演武についてはその丁寧さと稽古期間に比して上達の早さを、最高齢のIさんについてはその上手さとともに古希を超えてなお年々レベルアップしていることへの驚きと賞賛の言葉が印象的でした。
本当に嬉しかったです。
ありがとうございました!
多々良先生の師匠のお言葉「上達に必要なのは熱意と素直さだ」はまさに金言だと思います。
年齢と共に経験を積むとどんどん自己主張が強くなります。それは良いことでもあるのですが、どうしても人の話を素直に聞かなくなりがちです。やはり素直に受け入れる柔軟性は持ち合わせていたいと自分に言い聞かせております。
翡縁会の方々の演武はとても速くてその場ではなかなか分からないので動画でじっくりと勉強させていただこうと思います。また組演武の仕方などもとても参考になりました。ぜひマネさせて頂こうと思っております。
居合あり、剣術あり、棒術あり、合気道あり、ナイフ術?あり、フィリピン武術のカリありと多様な武術を見せていただけたことも大変な刺激になりました。
すでに来年の稽古総見に向けてどんな稽古をしようかと考えている自分がいます。
今回ご参加いただいた皆様、ぜひ来年もお付き合いください。
そして新たな方々の参加や違った武術の参加なども期待しているところでもあります。
ご縁がありましたらよろしくお願いします!
<翡縁会HP「稽古つぶやき」>
https://hien-kai.blog.jp/archives/23325684.html?utm_source=blogreaderoa
ちょっと前の話題で恐縮ですが、
藤井聡太氏が八冠制覇を成し遂げました。
10月16日の日経新聞文化面に王座を明け渡した永瀬拓矢氏へのインタビューが載ってました。
その中で永瀬氏は
「藤井さんのすごいところは集中力。あと(自分にとっての)損得で考えないところ。それは「人間をやめている」とも言える」
「藤井八冠は(将棋の勉強の邪魔とも言えるイベント出演といった対局以外の)仕事を断ってベストを尽くすのではなく、頼まれたら全部やる。その上でベストを尽くす。普通は(仕事を減らすなど)環境を変えようとする。そのような考え方があるのかと、発見だった」
また藤井聡太八冠達成についてのインタビューで師匠の杉本八段はこんなことを言ってます。
「彼(藤井聡太)は目の前の勝利にはあまり興味は無いのではないかと思う。一盤の一手一手にひたすら向き合っているのだと思う」
師匠の言う通り、藤井聡太氏は八冠達成のインタビューで「八冠は目標ではない」とハッキリと言っています。
彼はタイトルが目標ではない、さらに勝つことだけを求めているわけでもないと言い切ります。
では何を求めているのか?
師匠の杉本八段曰く「彼はただただ将棋が好きでその好きな将棋で負けたくないのだ」
永瀬氏は藤井聡太八冠は「人間をやめている」と言いましたが、実は逆でとても人間的な人なのではないかと思います。
彼には将棋に関して「努力」という観念はないのでしょう。
大きな意味で将棋そのものが好きなので将棋が出来る環境も大切にしたいと思っているのだと思います。
本日、第12回稽古総見が無事終了しました。
実はゲストでご参加頂いた翡縁会さんの稽古日誌ブログには稽古総見を意識した稽古のことが書かれていました。
とても嬉しくなりました。
もちろん稽古総見を主催する私たちの稽古も同じです。
稽古総見は開始前にはその目的の大半が終了します。
楽しく、静かに稽古することが静稽会の目的です。
そのために設立された会です。他に目的はありません。
稽古総見自体は会の目的ではありません。あくまでも目的は普段の稽古にあります。
しかも楽しく、静かに稽古すること。
確かに普段の稽古が目的ですが稽古総見を軽く捉えてしまうと稽古が楽しくない。日常と非日常はそのコントラストが強いほど楽しく、地味な稽古が一瞬の輝きを支えます。
そして自分が稽古が出来る環境も大事で蔑ろに出来ないし、蔑ろにしたら稽古自体が出来なくなってしまう。
きっと藤井聡太八冠は将棋をそんな風に考えているのだと思います。
稽古の大好きなゲストの皆様、本当にありがとうございました。
今日も楽しく、静かに稽古が出来ました。
ぜひまた来年もやりましょう!
本日、重要無形文化財保持者、簡単に言うと「人間国宝」の五街道雲助さんの落語を聴く機会に恵まれました。
その前をつとめたのは柳家喬太郎さん。
足の具合が悪いのか柳家喬太郎さんは講談師の講釈台を借りて話をしていました。正座するのも辛いのでしょうか。心配です。
トリの五街道雲助さんの演目は古典落語「淀五郎」でした。
あまり落語を聴かない人には馴染みがないかもしれません。
これは若手歌舞伎役者の澤村淀五郎と彼を大抜擢した座頭の市川園蔵、そして淀五郎にアドバイスする初代中村仲蔵の噺です。
歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の塩治判官役(浅野内匠頭)に抜擢された淀五郎ですが、張り切りすぎて、上手くやろうと知らず知らずのうちに浮き足立ち、演技が空回りしてしまいます。淀五郎を抜擢した大星由良之助役(大石内蔵助)の市川園蔵は判官切腹のシーンで本来ならば判官の側まで近寄るはずですが、なかなか近くに行きません。
演技後に淀五郎はどうして?と訊きますが「お前は役者だろ。そんなことも解らないのか?それなら本当に腹を切れ。お前みてえな下手な役者は腹を切って死んじまえ!」
淀五郎は園蔵を恨んで舞台で園蔵を刺して、本当に腹を切ろうと決心して、お世話になった中村仲蔵のところに別れの挨拶に行きます。
仲蔵からは上手く役をこなそうとして空回りしていることを指摘され、そんな自分に厳しい言葉を投げつけた園蔵の心中を察します。さらに判官が切腹する際の心情についても切々と説諭され、徹夜で稽古に励むと・・・
翌日の舞台
淀五郎の演技を見て喜んだ由良之助(園蔵)は近寄って判官(淀五郎)の前で平伏します。
そこで判官のセリフ
「うぉぉ・・・、ま・ち・か・ね・た~」
拍手喝采
泣けますね〜
私も稽古総見ではケレン味が出ないようつとめたいと思っております。
ちなみに私が大好きな落語家「黒門町」八代目桂文楽は最晩年、高座で失敗した時の謝り方も稽古していたそうです。
「申し訳ありません。もう一度、勉強し直して参ります」
これは実際に使われました。
深々と頭を下げて話の途中で高座を降りたそうです。
万が一の時はこれを使わせてもらおうかな・・・(笑)
静稽会は2023年10月22日(日)に第12回稽古総見を開催します。
毎回毎回言っていることですが、稽古総見はいわゆる一般的な演武会とは違います。
人に見せることが目的ではなく、どこまでも今の自分と向き合うための「稽古」です。
体調不良、稽古不足、技量不足などなどそれぞれ個々の事情はあろうかと思います。
しかしそんなことは一切関係ありません。
稽古したことを今のままの状態で全力で出すというのが稽古総見です。そしてそれをそのまま各自が静かに受け入るということです。
そんな姿をカメラで記録動画を撮ります。それを後日、それぞれにお渡しします。
現在、私の元には11回分の記録があります(コロナ禍で1回は実施出来ませんでした)。参加された方々にも参加した分の記録があるはずです。
果たして○年前の自分はどうだったのか?
何がどう変わったのか?
この一年何を試行錯誤したのか?
それはどういう変遷を辿って今ここに至ったのか?
自分を振り返る絶好の機会です。
他団体も含めた経験者たちの目前での披露はとても緊張します。
冷静に出来たか?
それとも緊張して体が思うように動かなかったか?
頭が真っ白になってしまったか?
そんな非日常さえ楽しめたか?
普段、平常心を鍛える稽古はなかなか出来ません。この機会に今の自身の平常心がどの程度のものか?を知るにも良い機会です。
昔の武術の試合は命のやり取りでした。もしかしたらそんなことがある日突然訪れたかもしれません。
そんな究極の状況に比べれば、稽古総見など取るに足りない状況です。しかしその稽古総見でさえ普段の稽古通りに出来ないとすればその技は本物ではないということです。
厳しい言い方をすれば、武術ではいくら普段の稽古で上手く出来たとしても、いざという時に稽古通りの技が発揮されなければ、出来ないのと同じとも言えます。
だからこそ「不断」の稽古で技を磨くとともに稽古総見という非日常でも最高のパフォーマンスが出せるよう平常心を鍛えなければなりません。
また他団体の方の技を目の前でじっくり観ることの出来る数少ないチャンスです。自分たちの外にはこんな世界があるんだ〜と知るだけでも観る価値があります。そんな驚きがその後の稽古のパワーになります。
2023年10月22日の稽古総見はワンチャンスです。一期一会です。上手、下手もありません。やり直しもありません。だからこそ面白いのだと思うのです。
そんな稽古総見を楽しんだ後は懇親会で驚きを与えてくれた方と交流しましょう!
美味しいお酒を飲みましょう!
翡縁会HPのブログ「稽古つぶやき」に試斬のことが書いてありました。
まさに試斬に対する私の思いと同じだと感じました。静稽会で試斬会に参加された方々は全員このブログで書かれていることに共感するのではないでしょうか。
それほど試斬の核心をついた内容だったので、一部抜粋させていただきます。
「できるだけ今までの感覚を捨てて、剣に任せる感じを心掛けて少し軽く振れていたが、後半は斬ろうとする気持ちが出てきて、積極的な斬りになってしまっていた。
それが悪いわけではないが、斬りに対して余計なものでしかない場合が多いので、どちらも使い分けてできるようにしたい。
ただ、まずは軽く斬る、剣を尊重させることを安定させたい。
-中略-
剣と一体になっている感覚があるときもあった。
ただ、軽く剣を振ったら斬れないのでは、という不安感が常にあった気がする。
-中略-
試斬は奥が深い。斬ろうとすればするほど斬れない。
誰かに昔、どう斬っているのかと聞かれたことがある。
牛乳パックと対峙して、斬る瞬間に、斬ろうと思わず、斬れていると思うことかなあ、
といったことを答えた気がする。
今日初めて体験した人も何人か。
今回は苦戦気味の人が多かったが、斬れる感覚をつかむところまでいってほしい。
素振りをやってもらって斬りをやるが、素振りと斬りが同じようにやることがまず難しい。
いかに実際に斬るときに、斬ろうとする意識を消せるか、自分との戦いになる。」
私は以前、試斬会でこんなことを言ったことがあります。
「「斬ってやる」と思ったら斬れない。また「斬れるか?」という思いが一瞬でもよぎったらもう絶対に斬れない。」
ケンシロウの「お前はすでに死んでいる」の世界なのかもしれません。
1990年2月10日、新日本プロレス東京ドームでの試合の直前、控室でピリピリしたムードの中、テレビ朝日の佐々木正洋アナウンサーがアントニオ猪木にこんな質問をします。
「もし負けるということがあると、これは勝負の時の運という言葉で済まないことになりますが?」
「出る前に負ける事考えるバカいるかよ!」
そしてアナウンサーをビンタ
「出てけコラー!」
アントニオ猪木がカメラがまわっているにもかかわらずアナウンサーにビンタした本当の理由はなんだったのか?
試斬を単なる刃筋の稽古としか捉えられない人は永遠にわからないと思います。
翡縁会副代表でんこさんの言うようにまさに試斬は「自分との戦い」なんです。
<翡縁会HP>
https://hien-kai.blog.jp/archives/23015420.html?utm_source=blogreaderoa
昨夜は「中秋の名月」でした。
月を愛でるという感性は優雅でいいですね。
そういえば私が子供の頃、「素浪人 月影兵庫」というテレビ時代劇をやってました。
主役の月影兵庫役は近衛十四郎、松方弘樹の父親です。もう近衛十四郎どころか松方弘樹さえ知らない人が多いでしょうね。松方弘樹は「仁義なき戦い」シリーズのコワモテ役でしたが、バラエティ番組「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」では全く別の顔を見せていました。
テレビの中の月影兵庫は柄の長い刀を差していて殺陣もカッコよかった記憶があります。
私の差し料の柄がやや長いのは月影兵庫への憧れからかもしれません。
「月影兵庫(ツキカゲヒョウゴ)」という名前は音(オン)が心地よく、「月影」と「兵庫」(意味的には「武器庫」)という対照的な組み合わせも面白い。
私は長い間、「月影」は単純に月の光が作る影だと思っていました。
「月影」が月の光そのものを表していると知ったのはずーっと後のことです。
昔の日本は現代のような太陽暦ではなく太陰暦でした。太陰暦は月の満ち欠けに基づいて一ヶ月をさだめる暦です。
そんな月が今よりも特別な存在だった時代の「月影」はさぞかし古人の心を震わすものだっただろうと想像できます。
「月光」「月明かり」「月下」「月華」など月の光を表す言葉はたくさんありますが、私は「月影」の表現がとても文学的な感じがして好きです。
月の光というよりも本来は月の姿を表している「月影」は「面影」と同じで朧げな感覚表現が秀逸です。
先日、三井記念美術館「超絶技巧、未来へ!」で大竹亮峯氏の「月光」という作品を見てきました。ゾクゾクするほどの迫力がありました。やはり月の光には特別な何かが宿っているようです。
「月影」を感じさせる曲ではドビュッシーの「月の光」やベートーベンの「月光」もありますが、私は断然「月の沙漠」だと思っています。
「素浪人 月影兵庫」の原作者南條範夫はどんな思いで主人公に「月影兵庫」という名前をつけたのか?
そう言えば以前に読んで衝撃を受けた「シグルイ」(原作名「駿河城御前試合」)の原作者も南條範夫でした。
刺激的な作家です。
中秋の名月を見ながら無限に妄想が広がりました。
以前は稽古に使う日本刀を選んで欲しいと頼まれることが多く、随分と刀剣店巡りをしていた時期がありました。
刀剣店巡りでは日本刀のことをいろいろ教えて頂いて勉強になった反面、裏の事情も耳に入ってきて「なるほどそんなものか」と刀剣商売の厳しさも知りました。
日本刀は単価がそれなりに高いのでそんなにたくさんは売れません。価格も結構変動しますし長期に在庫を抱えるリスクもあります。さらに業界独特の「常識」もあったりとなかなか素人では太刀打ち出来ません。
現代刀ではなく古い刀を買おうとすると私たちが手に入れることのできる価格帯の刀では瑕疵のない刀はありません。要はその瑕疵と値段と自分の心のバランスの中で何をどれだけ重要視するかになってきます。
しかし瑕疵の見分け方はなかなか難しい・・・かつ長さ、重ね、身幅、重さ、反り、バランスなどのスペックが自分に合うか?レベルに合うか?好みに合うか?
古い刀は世の中に一つしかありませんので、もちろん出会いが大切ということもあります。
価格的に手が届き、かつ自分に合うスペックで好みの刀との出会いを求めて続けていると何年も見つからないということもあります。運命的な出会いを信じて渾身の一振を探し続けるのも楽しいかもしれません。
ある時、私の刀を某刀剣店の主人が査定したことがありました。その主人は私の刀を一目見てこう言いました。
「真面目な刀です」
一瞬、その意味がわかりませんでしたが、しばらくしてから、ああなるほど真面目だけど観賞用としてはつまらない刀という意味なんだと悟りました。もちろん私の刀は稽古に使いますので、確かに武用の「真面目な刀」です。
なかなか言い得て妙な「真面目な刀」という言い回しに感心させられました。
刀の持ち主を怒らせず、傷つけずにやんわり断るための言い回しです。
「こんな地味な刀ではなかなか売れないね〜確かに武器としての基準は満たしているけど面白味がないね〜」
そんな刀剣店主人の心の声が聞こえてきました。
「真面目な刀」こそ本来の刀なんですけどねえ。
昔、柔道部に双手刈り(もろてがり)という技が得意な後輩がいました。
相手の両足を両手で抱きかかえて倒す技です。彼の双手刈りに掛かると、もう逃げられません。
瞬時に一本で勝負が決まります。
圧倒的でした。
普通なら両足に組み付いた瞬間、相手が背中側の柔道着を掴んでしまうので、綺麗には倒れません。下手をすると横に投げ飛ばされてしまいます。
しかし彼の双手刈りにかかると相手は棒が倒れるように綺麗に倒れました。
現在の国際柔道のルールでは帯から下の下半身を直接攻撃した場合(いわゆる双手刈りや朽ち木倒しなど)は反則になるらしいです。理由はいろいろあるようですがよくわかりません。
現在、ラグビーワールドカップが行われていますが、いわゆるラグビーのタックルは双手刈りによく似ています。
先日、NHK番組の「明鏡止水〜武のKAMIWAZA〜」でラグビーのタックルを武術的に解説する場面がありました。格闘家が説明した肩甲骨から腕の内旋を使って押し下げながらする「タックル」に現役ラガーマンたちは新鮮な驚きを持ったようです。
また低い姿勢で向かって行くと相手に動きを察知されてしまうので、直前になってから姿勢を低くするなど、当時、双手刈りを後輩に指導していた柔道部顧問の先生の説明と一致します。
おそらく後輩も姿勢を低くする時に膝の力を抜いて予備動作の無い動きをしていたのだろうと思います。とにかく見事な双手刈りでした。
しかし残念ながら彼には他に得意技がありませんでした。
双手刈りは一度失敗するとその後は相手が警戒して2回目の双手刈りが成功する確率はグッと低くなります。他に得意技を持たなかった彼はその間に負けてしまうことが多かったように記憶しています。
やはり得意技は合わせ技でこそ効果を発揮するようです。
野球の速球一本や相撲の突っ張り一本ではやはり勝つのはなかなか難しい・・・?
まさかラグビーと武術がこんなところで出会うとは思いもしませんでした。
久しぶりに双手刈りの後輩の顔を思い出せたのもラグビーワールドカップのお陰かも知れません。
その後輩もとうに還暦を超えているはずです。
「世の中にはわかっていることとわかっていないことがある」という二元的でスッキリした世界観に陥ると、とんでもないチョイスをしてしまうおそれがあります。
割と若い人に多いかもしれません。
もう少し長く生きるとわかります。
どうも世の中はそんなにハッキリしたものではないらしいと。
私たちは曖昧な世界に身を置いていると同時に私たち自身さえも曖昧な存在なんだと気づくべきです。
世の中はモヤモヤだらけで不確実で浮遊しているという認識の方が正しいと思います。
「ジョジョの奇妙な冒険」のDIOのように(わからない人ごめんなさい)
「無駄、無駄、無駄、無駄、無駄、無駄ァーーーッ!」
と無駄を切り捨てまくって、合理性でシステム化を進めるとその刃はやがて自分自身に向くことになります。
タイパなどはかえって生きてる時間を短くしてしまう様に感じますが、どうでしょうか?
世の中、わからないこともあります。
わからなくてもいいじゃあないか、人間だもの・・・ちょっと拝借しました(笑)
わからないことをわからないままにしておくことも知恵の一つです。
何でもすぐに語る必要はありません。
多くを語る人ほど自分自身のことはよくわかっていませんから。
もう少し楽になりましょう。深呼吸しましょう。
近くだけではなく、もっと遠くを見ましょう。
急がず、じっくり、腰を据えて、生きましょう。
闇の中に静かに身を置くと体の境目が曖昧になって体が闇に溶けていきます。そんな感覚に身を委ねてみると気持ちが穏やかになります。
米を食べる、野菜を食べる、肉を食べる、魚を食べる、稽古をする、すると時空を超えて自分の体が溶け出して田んぼになり、畑になり、山になり、海になり・・・まわりまわって稽古をしてくれる人につながる・・・
武術の稽古は決して人と戦うためだけのものではないと思います。
体だけではなく心もゆるめていきましょう。
今日は重陽の節句(菊の節句)ですので、無病息災と長寿、そしてまた一緒に稽古できることを願っております。
「ハレ」と「ケ」という言葉を知ったのは10代最後の頃、民俗学の授業だったと思います。
「ハレ」の場は人がたくさん集まる場、華やかな場、祭礼、年中行事、非日常。「ケ」の場は普段の生活、日常。
「ハレ」の日は晴れ着を着て、赤飯を食べ、お酒を飲む特別な日。
「ハレ」の日ばかりだと良いのに・・・と思いますが・・・
「ハレ」も長く続くと「ケ」になっていきます。
実は「ケ」があるからこそ「ハレ」があります。
「ハレ」ばかりの日々が続くといずれそれが「ケ」になり、新たな「ハレ」を探すことになります。
そうやって人は「変態」していくんだ・・・
「ハレとケ」を知った時にそう得心しました(笑)
初めて日本刀を手にした時の怖さ。吸い込まれるような霊気。
確かに日本刀には「モノノケ」が住んでいると感じました。その時の日本刀は確かに「ハレ」でした。
しかしその日本刀を使い続けていると、段々と日本刀が「ハレ」から「ケ」に変わっていきます。
日本刀をまだ「ハレ」と感じている世の中の人に向かって、「ケ」の感覚で日本刀を語ったり、触ったり、振り回したりする人は完全に「変態」という目で見られます。
気をつけましょう(笑)
そして「ハレ」から「ケ」に移り変わる「逢魔時」の日本刀が一番危ないのです。
意外かもしれませんが、日本刀のケガで一番多いのは稽古中よりも稽古が終わって日本刀の手入れをしている時なんです。
稽古が終わってホッした瞬間に日本刀からスーッと「モノノケ」が現れます。
無防備な状態でその「モノノケ」に触れてしまうとケガをします。
稽古後の刀礼は「モノノケ」を鎮め、「ハレ」と「ケ」の境界線から「モノノケ」が出てこないようにするための儀式なのかもしれません。
そう考えれば刀礼はもっと丁寧に出来るはずです。
私が参加していた坐禅会では「拈華微笑(ねんげみしょう)」という言葉を良く耳にしました。
確かこんなお話です。
「お釈迦さまが霊鷲山の説法の座に座って、黙って花をひねって示したところ、誰もその意味がわからなかった。しかし一人摩訶迦葉(まかかしょう)だけがお釈迦さまの真意を悟って微笑した。それを見たお釈迦さまは確かに仏法が摩訶迦葉に伝わったと話された。」
摩訶不思議、なんじゃこりゃです。
この話は「以心伝心」という風に伝えられますが、私は少し違うと感じています。
実は武術でも似たような瞬間を感じることがあります。
この話が載っている原文にも「不立文字」や「教外別伝」とあることから私はそちらの言葉の方がすんなり腹に落ちます。
要は「悟りは言葉や文字、理論によって伝わるものではない」というわけです。私は坐禅を組んでも到底「悟り」を得ることが出来なかったので、このことは「悟り」の部分を「武術の核心」に変えることでボンヤリとですが少しだけ実感が湧きます。
さらに進んで考えれば「武術の核心」は「言葉や文字、理論では伝わらないから気をつけろ」ということだと自戒しています。
では何で伝わるのか?
坐禅では自身が体験して実践することでしか伝わらないと言われます。武術も全く同じ気がします。
聞くところによれば庭のカラスの鳴き声を聞いても悟る人は悟るそうですから、「武術の核心」はうっかり転んだ時に得られるかもしれません。
もちろんしっかり稽古を積んだ人だけの話です。
私はこれまで「武士はストレッチはやらない!」と言って稽古前のストレッチはやりませんでした。
たまに稽古に向かう「気持ちの準備運動」程度で決まった居合形を5〜6本抜いたり、膝行膝退などをやったりやらなかったり・・・
ズボラな性格もありますが、武士がいざ戦う段になって、敵に向かって「ストレッチするのでちょっと待って!」とは言わないはずだと言い張っていました(笑)
加えて私たちが求めている体の使い方はいわゆるスポーツの筋肉の使い方とは違うという思いもあります。
最近、ストレッチにも大きく2つあることを知りました。
「静的(スタティック)ストレッチ」
「動的(ダイナミック)ストレッチ」
ある研究によれば運動前に「静的ストレッチ」を行うとパフォーマンスが低下する結果があるそうです。
「おっ!図らずも私の正しさが証明されたか?」
しかしこれには但し書きがありました。それは「長時間(30秒以上)行った場合」だそうです。
その原因は神経系のメカニズムにあると言われています。筋肉に「伸ばされている」との情報を送り続けると、筋肉はリラックスモードに切り替わり、抑制系の刺激を引き起こしてしまうからだそうです。
実は私は火曜日の稽古直前にヨガの予定を入れています。
このスケジュールは私がヨガの先生にこだわるので曜日が変えられないのです(泣)
そんな訳でみっちりとヨガをやった後で刀を振ることになり、なんとも言えない違和感がありました。
「そうか〜これが原因だったか!」
ヨガはまさに静的ストレッチに近く、それも1時間もみっちりやってた訳ですから違和感を感じるのは当たり前です。
ただ「静的ストレッチ」に対して「動的ストレッチ」は、特に瞬発力が求められるものにパフォーマンスを向上させる研究結果があるそうです。
しかしこれも私たちの稽古はスポーツのそれとは筋肉の使い方が違うため当てはまるかどうかはわかりませんが・・・
年齢的な問題や静稽会稽古の体の使い方に慣れていない初心者の方への対応(初心者の方はどうしても無理な筋肉の使い方をしてしまいがち)もあって「武士のストレッチ」は悩ましい問題です。
磯田道史著「日本史を暴く」(中公新書)によれば甲賀忍者の忍術書「軍法間林清陽(ぐんぽうかんりんせいよう)」には忍者が「大勢に取籠められた時の習い」という条があるそうです。
忍者が不覚にも見つかってしまって、大人数の敵に取り囲まれた時の対処法ということになります。
さあどうするのか?
「二人にでも三人にでも、一つにかたまり、太刀先をならべ、敵の右へ右へと切り懸ける。敵を一つの丸(い塊)で討つ」とあるそうです。
磯田氏によれば「武士は左の腰に鞘や脇差がある。左は斬っても倒しにくい。したがって右が敵の弱点である。さらにいえば、右のほうが敵の利き腕である確率が高い。だから忍者は右へ右へ切りかかれと教えた」と書いてあります。
どうでしょうか?
確かに鞘や脇差は障害物になります。しかし致命傷を与える斬り方よりもまず間合いの近い右手右腕を斬ることの方を優先したのではないでしょうか?
右手が利き手だから狙うと言うよりも、右手の間合いが近いからという理由の方が合理的な気がします。
磯田氏が言うように確かに右手への攻撃は有効ですが・・・どちらかと言うと実効性、確実性が導いた教えという気がします。
また右利きの人は右側に体が開くと攻撃精度が落ちると聞いたことがあります。それも「右へ右へ」と斬り懸かれとした理由かもしれません。
さらに「太刀先をならべ」とあるのは切り掛かった一人を敵が刀で防いだ時にもう一人が斬り懸かるという「一つの丸で討つ」集団戦法です。
この攻撃の有効性は幕末の新撰組が実戦で証明しています。
よく時代劇で敵に囲まれて味方同士が背中合わせで戦うシーンを見かけますが、残念ながら現実はだいぶ違うようです。
ロシアは昔はソ連と言いました。正式にはソビエト社会主義共和国連邦。
配給に並ぶ人々、暗く抑圧された国というイメージでした。
そんなソ連時代に伝説のロシア人ロック歌手がいました。
Кино(キノー)というバンドのボーカル、ヴィクトル・ツォイです。
最近、ハマってます。
キノーには「Перемен」(ペリェミェン)という曲があります。
日本語にすると「変化」
単調なリズムに低音の渋い声でツォイが歌います。
聞き慣れない言語のせいなのか、あまり区切りの良くない単語がロックのリズムに乗り切れない感じもしますが、そんなことを飛び越えて中心軸に響いてきます。
ソ連時代の灰色の街並み・・・さらにその暗い地下で歌うツォイ、彼は静かに歌います。
カレンダーのマス目から一日が引っこ抜かれていく♪
変化♪
俺たちの心臓が求めている♪
変化♪
俺たちの眼が求めている♪
俺たちの笑いと涙と♪
血管と脈拍の中に♪
変化♪
俺たちは変化を待っている♪
抑圧された時代が長く続いて、閉塞感に耐えきれずに発した叫びです。
当時のソ連はペレストロイカが始まったばかりで、まだ文化的な解放には至っていませんでした。当然こうした曲は当局の取り締まりの対象になっていたはずです。
自由な時代や国に生きている人たちには当時の張り詰めた空気感は伝わらないかも知れません。
伝説のロック歌手ツォイは28歳の若さで亡くなってます。
この歌詞をなんの前知識も持たず、素直に聴くとまた違う思いが去来します。
「So this is X'mas and what have you done?」
(今日はクリスマス 何をした一年だった?)
こんな風に始まるジョン・レノン&オノ・ヨーコの「Happy X'mas (War is over)」ですが、
「what have you done?」
もう若くもない自分に問われている気がします。
そう言えばジョン・レノンも40歳の若さで亡くなりました。
「赤城の山も今宵が限り、生まれ故郷の國定村や縄張りを捨て、国を捨て、可愛い子分の手前(てめえ)たちとも別れ別れになる首途(かどで)だあ!」
子供の頃、このセリフが大好きでした。
私が育ったところからは赤城山がよく見えました。
そんな赤城山に国定忠治の姿を重ねてよく眺めていました。
今、私の家には赤城山のシルクスクリーンが飾ってあります。
それを見るたびにあのセリフが蘇ります。
十数年前に稽古仲間で新国劇の「国定忠治」を真似て演じたことがありました。
その時、主演の国定忠治役をやったSさんは今でもみんなから「親分」と呼ばれています。
「親分」は私のイメージした「国定忠治」にピッタリでした。
「親分」のセリフは続きます。
「加賀国小松(かがのくにこまつ)の住人五郎義兼(よしかね)が鍛えた業物(わざもの)、万年溜まりの雪水に浄めて、俺にゃあ生涯(しょうげえ)手前(てめえ)という強え味方があったのだ!」
ここまでが「親分」のセリフ。
本番では見事に決まりました。
動きとセリフのタイミングを合わせるのは一苦労でしたが、それだけに「親分」の想いは強かったと思います。
「親分」は自前の着流しでこの役を演じました。それもまたカッコイイ!
今では私の中で「国定忠治」は完全に「親分」のイメージになってます。
その「親分」は静稽会ホームページ表紙の「試斬アーカイブ」で見ることができます。
見事な斬りでこちらもカッコイイ!
加えて「国定忠治」の差料「五郎義兼」は作刀数も少なくビックネームの刀工ではありませんが私の中では憧れの刀です。
一度この刀工の刀を実際に見てみたいと思っています。
「見ると聞くでは大違い」
「百聞は一見にしかず」などとも言います。
初めて居合を見た時、私はこんなことを思いました。
「こんな簡単な動きなら、三ヶ月も習えばあとは一人で出来る」
そう思って私は居合を始めました(笑)
しかし・・・
「見るとやるとは大違い」でした。
世の中にはやってみないとわからないことがたくさんあります。
絵もただ「見る」のと「描く」では絵がまるで違って見えます。
以前「居合は動禅である」と書いてあった本を読んで「なるほど!」と思っていました。
そしてそのままその言葉を人に投げつけておりました。
しかしある時、
「本当にそうなのか?」
居合はともかく、まともに坐禅を組んだことも無いのに・・・
一方通行で語っていないか?
そこから臨済宗系の坐禅会に入って5年間本格的に坐禅に向き合いました。
そこには思っていた坐禅とは違う世界がありました。
やがて私の中で「居合は動禅である」の意味も変わっていきます。
今では「坐禅は静居合である」と思っています。
もしかしたらこの先さらに変わっていくかもしれません。
それでも本に書いてあることをそのまま受け止めていた時とは比べ物にならないほどリアルに近づいていると感じます。
このこと以降、「一見」の先が気になるようになりました。
やはり見るだけでは足らない・・・
私は10年ほど前の2013年10月22日付静稽録で「居合はスポーツではない」と書いています。今もそう思っています。
これにはいろんな意味合いが含まれていますので、一筋縄ではいきませんが、それでも敢えて自分に問います。
「そもそもおまえは「スポーツ」というものを本当にわかっているのか?」
振り返ってみれば、私はこれまで「スポーツ」を科学的に学んだことはありません。ただ学校や部活、趣味レベルで「スポーツ」をやっていただけです。
「居合」と「スポーツ」とは何が違うのか?どう違うのか?
普段の稽古で体の使い方などが違うことは感じています。しかしそれを系統だってつまびらかにしてきたわけではありません。
静稽会が「日本古来の体の使い方」を稽古しているとすれば、それは「スポーツ」のそれとはどこがどう違うのか?
残念ながら現代では「日本古来の体の使い方」が確実にわかっている人はいません。
どこまでも「推察」です。
日々の稽古の中、数少ない古い書物や資料を参考に体と対話しながら手探り状態です。
それに比べて現代スポーツのことを科学的に学習、実践することは比較的容易です。
書物や映像、資料やデータもたくさんあります。まずは確かなところから手をつけるというのが常道です。
一度「スポーツ」とは何か?から「日本古来の体の使い方」にアプローチしてみるのも面白いのではないか・・・そんなことを考えています。
7月から初心者向けの居合基礎講座が本格稼働しました。
5月に市川市主催居合講座をやって意外と居合のニーズがあることがわかりました。同時に6月の開設準備講座では静稽会でやっている稽古と全くの初心者の間には相当な乖離があることもわかりました。
もっともっと手前からやらないと・・・そう痛感しました。
7月からは静稽会でやっている稽古にこだわらず、もっと広い視野で稽古内容を再構築しました。居合に通じる「スロープ」を設置した感じです。
基礎講座はまず座ることから始まります。
これは私が座禅から学んだことを参考にしています。一般的な座禅とは違います。詳しくは遡って静稽録をお読み下さい。
そして関節の可動域を広げるストレッチ。こちらはヨガや高橋佳三氏の古武術ストレッチなどを参考にしました。さらに四股、膝行膝退など普段あまりやらない動きを取り入れながら無理のない範囲でトライしていきます。
高齢の方、特に男性は関節の可動域がかなり狭くなっている方もいます。これを少しずつほぐしながら可動域を広げていきます。
若い方でも跪座やしゃがむことが出来ない方も少なくありません。
居合を始める前に居合の動作を可能にする体作りが基本になります。
最近の子どもたちは自慢話で
「◯◯が出来るよ!」という子は少ないそうです。
「◯◯持ってるよ!」となるとか。
「出来る」は可能態としての「自己」ですが、「持っている」は他者提供による「自己満足」です。
大人も年を取るにしたがって「出来る」ことが少なくなって、「持ってる」ことをアピールするようになります。
だれでも出来なかったことが出来るようになるのは嬉しいことです。
基礎講座では可能態としての自己を引き出しながら居合につながる動きを楽しく会得していきます。
コロナ禍の影響で増えたリモートですが、便利な面もある反面、不都合な面も認識されたようです。
不都合な問題の一つは「感情の共有」が難しい点です。
そう言えばリモート会議だけではなく、リモート飲み会なんていうのもありましたね。あれはどうなんでしょう。
今でもリモート飲み会やっている人はいるんでしょうか?
東北大学医学加齢研究所の榊助教は実験で会話の時に活発に働く脳の「前頭前野部」の血流量変化を調べたそうです。
一緒に会話して盛り上がり、同じように感情が変化すると血流量も似たように変化するそうで、このことを「脳活動の同期現象」と言うそうです。
つまり「脳活動の同期現象」が起きるということは「感情が共有」出来ている状態というわけです。
リモートでこの実験すると「脳活動の同期現象」は対面した時と比べて明らかに低下したそうです。
対面で何も会話していない時と同じレベルで、ほとんど「脳活動の同期現象」は起きていない状態なんだそうです。
リモートでは「感情の共有」は難しく情報だけが交換される無機質な会話になっている可能性が高いというわけです。
コロナ禍でコミュニケーションを取ろうとリモートに頼った訳ですが、情報交換には一定の成果はあったものの、「感情の共有」までは届かなかったようです。
またある実験では10時間孤立状態にいた人の脳は無性に交流を求める反応をするそうです。この反応の強さは空腹時に食べ物を求める反応の2倍と言われています。
聖書には「人はパンのみにて生きるにあらず」とありますが、食べ物よりも「対面会話」が欲しいと思う時はありますよね。
私の場合は「対面稽古」ですかね(笑)
稽古はリモートではなく対面で実施したいものです。
中国語で「老眼」は「花眼」と書くそうです。
なかなか美しい中国語です。
若い頃は見向きもしなかった草花だったのに、年をとるとふと足を止めて眺めたりするようになります。
「もうこの花が咲く季節かあ。そう言えばこの花の名前はなんだったかなあ?」
「花眼」になると花だけではなくそれまで見えなかった色んなものがみえてきます。
日本の「老眼」は見えなくなることしか意味しませんが、中国語の「花眼」は見えるものを表現しています。
さすがは漢字の国です。それに昔は儒教の国でしたからね~
武術でも「若眼」では見えなかったものがみえる瞬間があります。
ぼーっと「花眼」で観ると意外なものが見えたりします。
「手を上に伸ばして下さい」と言うと・・・
指先に力を入れて指先を一生懸命伸ばそうとします。しかし伸びるのは指先ではなく腕、肩、脇、さらには腰、脚、足裏へとつながるラインです。
「両足を揃えてから右足を45度外側に開いて下さい」と言うと・・・
右足先だけを外側に動かす人、右脚を外側に回す人、右股関節を外旋させる人、さらには右ではなく左股関節を外旋させる人、そして左膝なども使いながらそれらを複合的に使う人・・・
表に現れる動きは一見同じように見えますが、中身は大きく違います。
初心者はどうしても一番動くところに目がいきます。でも動かしているのはそこではありません。そしてそれは一箇所ではなかったり、裏側だったり、根元だったり、もっと複雑で複合的です。
刀の切先ばかりを目で追ってしまうのも初心者あるあるです。切先を見てしまうともう何も見えてきません。
宮本武蔵は「観の目つよく、見の目よはく、遠きところを近く見、近きところを遠く見る事、兵法の専なり」と言いました。
見えないところを見るためには「花眼」が役に立つ時もあります。
先日、NHKでタモリさんが屋久島を「ブラタモリ」してました。
やはり屋久島と言えば・・・屋久杉ですね。
屋久杉は1000年以上生きるそうです。中でも有名な縄文杉などは推定樹齢2700年以上なんだとか。
本州の杉はせいぜい500年と言われていますから驚異の生命力です。
しかし屋久島の杉苗を本州で植えても1000年も生きないそうです。
面白いですね。
屋久杉は年輪の間隔が狭く、ぎっしりと目が詰まっています。
成長がゆっくりなんです。
屋久島自体はほとんどが花崗岩で出来ているため、屋久杉は栄養分の少ない場所で成長せざるを得ません。
屋久杉はゆっくりしか育たないんですね。
しかし成長がゆっくりであるが故に屋久杉は大きく育ち、樹齢も長いと言うわけです。
稽古もそうありたい!
稽古は短距離ランナーではなく長距離ランナーでありたいと願っています。
死ぬ直前まで稽古したい(笑)
これまでも回り道をし、道を戻り、壁にぶつかり、紆余曲折を経て今があります。
凡人の辿る道はだいたいそんなとこです。
でもそれが楽しい。そして道の奥深さをしみじみと噛みしめてきました。
成長を急がなくていいですよ。
さらに大きく成長するには「おどりば」も必要ですから。
直線ではなく、螺旋に上がっていくのが理想です。
ゆっくりでも良いので長く続けることを大切して下さい。
NHK朝ドラ「らんまん」では明治維新で失われていく日本の文化や日常が描かれています。
着物を脱ぎ捨てドレスになるシーン
日本酒の酒蔵が消えていくシーン
西洋式の軍事訓練
日本の伝統的な音楽が蔑まされるシーン
踊りがダンスに変わるシーン
「西洋を取り入れることは目的ではない、手段である」と自らの意志で日本が「小さい西洋」になっていくこれらのシーンが印象的です。
日常の服装や家具、道具、食べ物、飲み物、音楽、踊りなどが西洋式に変わっていくと体の使い方、さらには心までも大きく変わっていきます。
そしていつの間にか・・・失われてしまった・・・とは言いたくありませんね。
瀕死とは言えまだかろうじて息をしています。
残った断片を拾い集めれば昔の日本を蘇生できるヒントがあるのではないか。
そしてそんな断片は居合の中にあるのではないか。
先日終了しましたが、市川市の居合講座にたくさんの方々が応募してくれました。
そして講座の継続を望む方々の力で6月から新たなスタートを切ることが出来ました。
日本の失われつつあるものを求める人はまだまだいるのだと再認識しました。
居合を単なる武術としてではなく、もっと広く日本の文化として求めている人たちがいることは大変心強いことです。
朝ドラ「らんまん」では、今、主人公の槙野万太郎が石版印刷の修行中です。
かつて浮世絵は版元、絵師、彫り師、刷り師といった分業(協業?)で成り立つ文化でした。それが明治になって石版印刷が出てきたことで、絵師と版元以外はその仕事を失っていきます。
石版印刷を手放しで讃える万太郎に対して絵師が言います。
「あたしらに消えろと言うのか?こんな印刷機が出てくれば彫り師も刷り師もいらなくなる。みな名も残さず消えていく」
しかし万太郎は静かに言います。
「失われないと思います。腕を競い、技を誇った職人たちは新たな場所に根付いて芽吹くはずです」
日本刀も刀工、研師、鞘師、白銀師、柄巻師、塗師などの分業です。それはかろうじて現代も変わりませんが、それぞれ本業のみでは簡単に食べていくことが出来ないのが現状です。
居合を知り、袴を履いて、日本刀で稽古することが「根付いて芽吹く」ことにつながってくれたらと願っています。
市川市公民館主催講座参加の方々から居合講座の継続を望む声が出たことから、6/4から「延長講座」を実施することになりました。メンバーが固まり本日が初日となりました。
居合講座をお引き受けした甲斐がありました。うれしい限りです。
またご尽力いただいた市職員の方には感謝申し上げます。
初日は講座同様に「フィジカル座禅」から始まり、股関節や肩甲骨周りの可動域を広げる稽古や素振りのためのプレ稽古、座り方から立ち方、歩き方を復習、素振り、十文字斬り表の形に少しかかったところであっという間に1時間半が終了しました。
皆さん、本当に熱心で休憩時間を設けても、すぐにでも再開したい「圧」が迫って来ます。それでも休まないと体が持ちませんので、無理やり休んで頂いてから稽古を再開するといった感じでした。
稽古は自分は何が出来て、何が出来ないかをしっかり知ることが大切です。全てのスタートはそこからになります。出来ないことは無理せず出来るようになるまでじっくり向き合うことです。
そして出来るようになった時の喜び。
「考える」ことが得意な現代人が「感じる」ことに集中するとどんなことが出来るのか?
伸び代はまだまだありそうです。
さらに心から体へというアプローチではなく、体から心へというアプローチを感じて頂ければ幸いです。
今日の稽古はややキツかったのではないかと思います。
皆さん、今宵は心地よい疲労感に浸りながら、深い眠りにつくことが出来るはずです。
私も楽しい稽古を思い出しつつ、心地よい眠りが出来そうです。
まだまだこの稽古は続きそうです。
これれからも楽しく稽古しましょう!
本日(5/28)、全三回の市川市公民館主催の居合講座「居合に学ぶ美しい所作」が無事終了しました。
昨年11月に講師の依頼を受けてから約半年、私も色々と勉強になりました。
最初に問い合わせいただいた内容は「居合を学ぶことで美しい姿勢や所作が身につき、健康にも資するような初心者講座は出来ませんか?」でした。
ご担当の方と何回か打ち合わせを重ねつつ、私の方からはこんなことをお願いしました。
「日本的な美しい所作には裏付けが必要です。所作のみを教えてもそれは単なる動作になってしまいます。初回は居合という媒体を通じて日本文化に触れる座学をやらせて下さい。2回目、3回目を実践編ではいかがでしょうか?」
なにしろ一回2時間、全三回合計6時間の講座です。
担当の方は本当に一般の方々の興味を引くような講座になるのか?不安だったのでしょう。古武術関係の書籍などを購入してご自身でも随分と勉強された様子でした。
初心者の方々に全三回で居合を少しでも理解、体験していただこうというのですから、難しいのは当然です。
レジュメや図の作成、TVモニターへの映像の映し出しなどは静稽会Iさんにお願いしました(Iさんには全三回の講座にも出席いただき随分とアシストしていただきました)
講座では内観、座り方、立ち方、歩き方、素振り、最後は一つの形にチャレンジしてもらいました。
講座の一貫したテーマは「感じる」でした。
何かを感じ取っていただけたでしょうか?
この講座をキッカケに何かが変わることを期待しています。
NHKの朝ドラ「らんまん」にはいろいろな植物が出て来ます。
「雑草という草はない」
恥ずかしながら若い頃は植物にはほとんど興味がありませんでした。自分の日本刀を持つようになってから刀装具に意外と植物の意匠が多いのに驚き、興味を持つようになりました。
昔の人はどうしてこの植物を刀装具にしようと思ったのか?
理由を知ると当時の人々の想いが伝わって来ます。
私が稽古に使っている刀の目貫は「万年青(おもと)」です。「万年青」は徳川家康が江戸で広めたと言われていますが、常緑で冬でも青々としていることから「若々しい」「長寿」「不老」などの願いが込められています。
もう一振りの方の目貫には「五三の桐」と「菊」が使われています。
日本政府の紋章は「五七の桐」ですが、私の目貫は少し数が違います。「桐」は鳳凰がとまる縁起木で元々は天皇家の副紋でした。
そしてご存知の通り「菊」は天皇家の紋章です。重陽の節句の花でもあります。重陽の節句は9月9日、陽数の最大値が重なる日です。邪気を払い、延命長寿の意味のある縁起の良い「菊」は静稽会の紋章「菊水」にも通じます。
「菊」から滴り落ちる水(菊の露)を飲んだ者は長生きするといいます。そう言えば「菊乃露」や「菊水」というお酒がありましたね。「菊」はとっても縁起の良い花なのです。
「藤」も刀装具に使われることが多い意匠です。樹齢が長く、「無事(ぶじ)」「不死(ふし)」と音が似ていることから好まれたそうです。
他にも「桃」や「牡丹」「菖蒲」「杜若(かきつばた)」などもよく使われます。
自分の刀にはどんな花を飾るか?
昔の武士の願いに想いを馳せながら植物を見るのも楽しいのではないかと思います。
新しい方々が入られると時々新鮮で根源的な質問を受けます。
先日、稽古中にこんな質問を受けました。
「なぜ体を捻ってはいけないのか?」
「捻ったっていいじゃあないか。人間だもの」と言いたいところですが、そもそも現代の私たちの「捻る」体の使い方は一体、どこで習ったものなのか?
どこから来たものなのか?を考えてみる必要があります。
そして昔の日本人の体の使い方はどんなものだったのか?
今と何が違うのか?
なぜそれを「習う」のか?
自身は居合に何を求めているのか?
自問自答しながら稽古を続けると見えてくるものがあると思います。
体の使い方はそれ単体で存在するということはありません。その裏側には服装や所作といった文化や美学があり日常生活があります。
例えば襖の開け方一つとっても、体を捻らない動きの中に日本的な静かな美しさがあります。
座り方や立ち方さえ椅子の生活と座敷の生活では違ってきます。
モップ掛けと雑巾掛けでも体の使い方は違います。
「ビーバップハイスクール」時代のヤンキーたちはコンビニ前で和式トイレ座りをしながらタバコをふかしていました。しかし今、「東京リベンジャーズ」のヤンキーたちはそれが出来ません。後ろに転がってしまうからです。今の人は足首が固くなっているからだと言われますが、和式トイレが少なくなっていった時期と重なります。
たかだか数十年で体の使い方は大きく変わってしまいます。
ましてや現代と江戸時代、さらには戦国時代や鎌倉時代のそれとは全く違うはずです。
そんな昔の人たちの体の使い方はどうだったのか?
凛とした佇まいや立ち居振る舞いはどうしたら身につくのか?
それは居合の中に見出せないのか?
「なぜ体を捻ってはいけないのか?」
ただ単にスポーツ合理性だけを考えていては答えは出てこないと思います。
GW中の観光地で着物を着付けしてもらった若い女性が「帯がキツくて吐きそう」とトイレに駆け込んでいく姿がテレビに映し出されていました。
やはり慣れない人には着物は辛いものなのか?
基本、帯だけで衣服を留める着物は着慣れた人には限りなく楽なんですけどねえ・・・私にとって稽古着はジャージと同じ感覚です。
ただでさえ普段、着慣れない着物を他人に着付けしてもらうとどうにも辛いものになるようです。
洋服はボタンやベルトで体にフィットさせますが、着物は基本的には帯(袴の場合は袴紐も)のみです。しかも帯の位置や締め加減は本人次第。これほど自由な服はありません。
ギターには指板上に打ち込まれた棒状の金属「フレット」と呼ばれるものがあります。この「フレット」を目印に指で押さえれば目指す音が出ます。
しかし三味線などには「フレット」はありません。
この感じは着物を着る時の感覚に似ています。
自身の着付けには「フレット」に代わる「勘所」が必要になってきます。
「勘所」さえ掴めばもう自由自在です。私は体調によって締め具合を変えたりします。
稽古では激しい動きをする訳ですから、普段着の着物よりも着崩れる可能性が高くなります。
稽古着が着崩れないようになるためには古(いにしえ)の人たちの体の動きに倣う必要があります。
稽古着の着付けも稽古着を着た時の体の使い方も「古(いにしえ)を稽(かんが)える」稽古に繋がっています。
まずは自分の体を感じること。「勘所」を掴むこと。
帯の締め具合、袴紐の締め所などを変えて自分の体を感じながらやってみると楽しいと思います。
もちろん着付けの基本はありますが着付けは絶対にこうするべきだということはありません。自分の体に合わせてある程度アレンジするのはありです。
ただ慣れないうちは稽古中に着崩れたら着付けの仕方を見直すだけではなく体の使い方が違うのかもと疑ってみることも必要です。
「数学って何の役に立つの?」
もしかしたらみなさんも一度は言ったことがあるのではないかと思います。
ない?私の偏見?
私は確かに言っていた記憶があります。
何でこんな面倒で不自由なことをやらなければならないのか?
残念ながら今でもまだ少し思っています。やっぱりコテコテの文系です。
少し前にNHKで「笑わない数学」という番組をやってました。
パンサー尾形が数学の大問題を大真面目に解説しながら番組を進行していきます。
特に「素数」や「無限」を扱った回は神回でした。
「素数」・・・だから何なの?
「無限」・・・無限は無限だろう!
そんなツッコミが聞こえてきそうです。
「無限」の回では
「自然数」(1・2・3・・・)と「偶数」(2・4・6・・・)の個数をずーっと数えたらどちらが大きいか?
「偶数」は「自然数」の半分なんだからやっぱり「自然数」じゃない?
と思う人もいる・・・でもそうはならない。
では「自然数」と「実数(存在するすべての数で小数・分数なども含む)」ではどうか?
・・・えっ!「無限」にも大小があるの???
私の中では忘れられない中学生時代「平行線問題」と呼んでいる出来事があります。
「平行線は交わることがあるのか?ないのか?」
どちらかといえば文系思考の友人が「交わらないから平行線というのだ」、理系思考の友人は「空間では平行線も交わることはある」
延々と続く友人のやり取りを見ていた記憶があります。
そんな私は数学の問題をただただ黙って解いていました。それは目の前の問題を解かなければ点数が取れないから。
不自由を感じながらも問題を解くことは出来ました。ただ楽しくはなかった・・・
今、稽古を始めたばかりの方々にはあらゆるものが不自由に感じられて、何のためにこんなことをするのか?と思っているかも知れません。
しかし稽古を続けていればその不自由を通り抜けた先には自由が待ってます。
そしてそれは楽しい!
最近、図書館で文系でも分かる数学の書を借りてきました。
遅ればせながら不自由と感じて楽しくなかった数学を今こそ自由に楽しみたいと思っています。
あっ!こんな問題を解いたことがあったなあ。
あ〜これはそういう意味だったのかあ!
初めて目の前が開けた気がしました。
何十年の時を経てやっと私も自由になれた・・・?
目には青葉山ほととぎす初鰹
山口素堂
先日、鰹の刺身をいただきました。
初鰹です。
初鰹(上り鰹)は戻り鰹のような脂のノリはありません。しかし身の色は鮮やかな赤色で身も引き締まっていて臭みもありません。
初鰹が大好きだった江戸っ子の粋を感じながら美味しくいただきました。
最近、静稽会に新しい方々が増えました。
やはり新しい方々と一緒に稽古をするのは新鮮で嬉しいものです。
改めて自分が夢中で稽古していた頃の気持ちを思い出させてくれます。
新しい方は袴の着付けや所作など覚えることが山ほどあります。
もちろん大変なこともありますが、新しいことに触れるたびに変化していく自分を楽しむ気持ちを大切にして欲しいと願っています。
常々、言っていることですが、稽古は楽しくなければ続きません。理由はなんでも良いと思っています。例えば体を動かすことが気持ち良い、みんなと話すことが楽しい、稽古後のビールが楽しみ、形が決まった時の快感などいろいろあると思います。
そんな「楽しさ」に夢中になることが大切だと思っています。
心身がキツい時は稽古はお休みするのが一番です。無理して稽古しても百害あって一利なしです。稽古したいという気持ちが湧き出て来るまでゆっくり待ちます。
私も新しい方々と触れ合いながら、新しい自分を楽しみたいと思っています。
どうかよろしくお願いします!
意外ですが、鰹の寿命は約十年だそうです。
同じ鰹が上り鰹にも戻り鰹にもなります。
最近、「Chat GPT」(チャットジーピーティー)という言葉をよく耳にします。
なかなか便利なもののようですが、どんなものなんでしょうか?
試しに「武術の極意を教えてください」と入力してみたところ、こんな答えが返ってきました。
「武術の極意とは、技術面や体力面だけでなく、心理面の強化も含まれます。以下にいくつかのポイントを挙げてみます。
1. 根気強く継続すること
武術を極めるには何年もの継続的な練習が必要です。最初はうまくできなくても、根気強く継続することで技量が向上します。
2. 自己修正の能力を養うこと
自己修正の能力があると、自分の弱点や問題点を見つけ、改善することができます。これによって、技術を磨くことができます。
3. 忍耐力を養うこと
武術には何度も失敗することがあります。そのたびに、自分を奮い立たせて、持久力や忍耐力を養っていくことが大切です。
4. 身体を鍛えること
体力、反射神経、柔軟性、バランス感覚などを鍛えることは、武術を極めるために不可欠です。定期的な運動やトレーニングを行うことで、自分の能力を向上させることができます。
5. 相手の心理状態を読み取る能力を養うこと
武術では、相手の心理状態を読み取ることが重要です。相手の心理状態を上手に読み取り、自分の戦略に活かすことができるようになれば、より高い技能を身に付けることができます。
以上が、武術を極めるためのポイントです。自分なりの方法でこれらを意識して、着実に技を磨くよう心がけましょう。」
何だかつまらない回答ですが、「根気強く継続すること」を一番目に持ってきたところは頷けます。
最近、「基本にして極意」という感じも何となくわかるような気がします。
全てのエッセンスを含んだ基本が一番数多く稽古し、一番紆余曲折を経て、一番極意に近づいているとも言えます。
「極意」なんて意外と「つまらない」ものなのかも知れません。
もうこれからは静稽録はChat GPTに書いてもらおうかな。
もし静稽録が引っ掛かりなく、読み易い文章になった時は疑って下さい(笑)
新しく入会された方々が最初にぶつかる壁が所作です。
細かくて覚えるのはなかなか大変です。
「なぜこうしなければならないのか?」
もちろん理由はあります。
しかし敢えてあまり細かなことを説明しない時もあります。
理由が分かった方が覚えやすいという方もいるかと思います。
それでもなるべくなら丸ごと体で覚えて欲しいと願っています。
もっとたくさんの細かな所作がある茶道などでは「なぜそうするのか?」という門人に対して「しらない」と突き放す師匠もいます。
どうしてそんな対応をするのでしょうか?
師匠は頭で考えることを排除して、まず体で向き合うことを求めています。
四苦八苦しながら所作に向き合っていると、ある時、頭で考えなくても自然と体が動く瞬間が訪れます。
そして無駄のない美しい動きが体に馴染む頃には心地よいと感じると思います。
考えてやる所作は単なる動作です。
心地よいと感じる様になって初めて所作本来の存在意義に気がつくと思います。
頭で考える所作は時間とともにいずれ消えてしまいますが、体にしみ込んだ所作は頭が忘れても体が覚えています。
早く所作を覚えたいと焦る気持ちもあるかもしれませんが、じっくり所作の壁に向き合って欲しいと思っています。所作の壁を正しく超える方法は何度も何度も体に刷り込む様に繰り返しやることです。
稽古場の外では効率に振り回されている私たちですが、稽古場は別世界ですから効率を求める必要はありません。
所作が心地良くなるまで何度でもお供します。
私の家のリビングの本棚には一番目立つところに舞踏家土方巽の本が置いてあります。
本のタイトルは
「美貌の青空」
難解で何度読んでもよくわかりません。もしかしたら「理解」するのではなく、「感じる」のではないか?と思い始めてからは気が楽になりました。
ある意味、武術稽古と似ているかもしれません。
実はこの本と同じタイトルがついた楽曲があります。
先日亡くなられた坂本龍一さんが作曲しています。この楽曲は映画「バベル」にも使われました。最近、日本のテレビなどでも活躍している菊地凛子さんという俳優の名前はこの映画で知りました。
楽曲「美貌の青空」の制作には坂本龍一さんと作詞家売野雅勇さんの二人がかなり長い時間をかけたと聞いたことがあります。
おそらく土方巽の「美貌の青空」に思い入れがあったのでしょう。
そういえばなんとなく詩や曲の雰囲気に土方巽を感じます。
「美貌の青空」は「言葉」を超えて五感に第六感まで総動員して「感じる」しかありません。
そう言えば映画「バベル」はもちろん旧約聖書「バベルの塔」の物語に通じていて、「言葉」が通じないことが一つのテーマになってます。
「美貌の青空」を感じながら
坂本龍一さんのご冥福をお祈りします。
WBC栗山監督が理想の上司の第一位になったそうです。
確かに「信じる」ことが信条で成果を出した監督ですから、部下から見れば理想の上司になって欲しいというのも頷けます。
この結果を受けて、爆笑問題の太田光さんがこんなことを言ってました。
「栗山監督が理想の上司だと言った部下には理想の部下は大谷翔平と言いたい!」(笑)
本当に彼はこういう時に抜群のセンスを発揮する人だなあと思います。
また「ミキティー!」こと藤本美貴さんはYouTubeで若い人達のお悩み相談をしているそうですが、ある時こんなお悩み相談があったそうです。
「彼の話が面白くない」
これに対してミキティーはこんな返しで一喝したそうです。
「なんで楽しませてもらう大前提なんだ!甘え過ぎだよ!」
拍手喝采!
剣術形には打太刀と仕太刀(呼び名は色々です)があります。
普通、形は打太刀は仕太刀を導くように作られています。ですからいわば打太刀は「上司」で仕太刀は「部下」という関係です。
では打太刀はいつも教える立場か?と言うとそうとばかりは言えません。
実は仕太刀を経て打太刀をやった時に仕太刀がよく見えます。
そして打太刀をやった後にまた仕太刀をやると打太刀がよく見えます。
そんな訳で静稽会の剣術稽古では仕太刀と打太刀の両方を交互に稽古します。
片方ばかり稽古するよりも相手がより見えてきます。
そして両方を経験した剣術稽古は約束稽古でありながらもより自由で、より楽しい稽古になります。
仕太刀から教わることもたくさんあります。
「言葉にした途端に消えていく」
「具体的に言えば言うほど遠くなる」
稽古の中で「伝える」時にはいつもこんな感じを抱きます。
普段、静稽会は形(カタ)稽古が中心ですが、形(カタチ)だけを伝えるのはそれほど難しいことではありません。しかしその形(カタ)の本質を伝えるのはものすごく難しいことだと感じています。
言葉や視覚では伝わらない部分があります。センシティブな感覚を伝えるのは本当に難しいと思います。
昔は視覚、触覚などに訴えるツールを使って明確にすれば伝えられると思ってた時期もありました。
しかし全部伝えようとすると間違って伝わったり、伝わらなかったりと弊害も多いと感じるようになりました。
個々人はそれぞれ体格も感応度も年齢も違いますから、同じことを伝えようとしても全く同じ訳にはいきません。
結局は全部伝えようとするよりも「ヒント」や「キッカケ」を伝えてあとは自身で探してもらうしかないというのが結論です。
私は過去の反省から、ある時期から「伝える」から「伝えられない」を前提にすることにしました。
世の武術オタクのような人の中にはたくさんの形(カタチ)を覚えて満足している人がいますが、それは形(カタ)の本質が伝わってないことの証左でもあります。
さらにいくら形(カタ)を学んでも自分で自由にコントロール出来なければ意味がありません。
また形(カタ)は大切ですが、いつまでもそこにとどまるものではないとも思っています。形(カタ)は稽古の過程でいずれは離れ、ある時にはまた戻ってくるようなところという感じがします。
静稽会は「型」と表記せず「形」と表記してます。
「型にはめる」と言いますが、「型」は全く同じものが出来上がります。大昔に達人が見出した動きを現代に蘇らせる夢のタイムカプセルとも言えます。
それでも同じ始祖を持つはずの流派の末が随分と違うものになっていることを考えると「伝える」ことの難しさはあります。そしてそれが意味することを考えたりします。
「形」は必ずしも全く同じものを示しているわけではありません。
例えば「四角形」と言えば、正方形であっても長方形であっても構わない訳です。大きさが違っても同じ形です。
全く同じモノとかコピーではなく、その核にあるものを伝えたい、静稽会の「形」はそんな想いを反映しています。
舞踊の世界では「半分はカタを覚えるために練習する。もう半分はカタを忘れるために練習する」と言うそうです。
また芸事には「守破離」という言葉もあります。
「カタ」は「伝える」ことの難しさがあると同時に「カタ」じゃあなければ伝わらないものがあるとも思っています。
最近、ヨガを始めてポーズも「カタ」なんだなと感じました。一見見た目は同じようなポーズをとっても、意識の置き所や使う筋肉や角度が少し違っただけで体に感じる感覚は全く違います。さらにそれは「稽古」の経過とともに変わっていきます。
結局、カタの本質は本人にしか見つけられないのだと思います。
また形でも型でも見据える先の「輝き」は同じなのではないかと思っています。
「良い試合は良い対戦相手がいて成立する」
WBC準決勝の日本対メキシコ戦は確かにそんな言葉がピッタリでした。
メキシコの監督が「野球が今夜の勝利者だ」と言ったそうです。
なかなかうまいことをいいます。
そう言えば翡縁会の多々良先生はこんなことを言ってました。
「自分も道具も大切に扱うことの出来ない人は稽古相手も大切に出来ない。そういう人は稽古相手もいなくなる。稽古相手がいるということはありがたいことだ」
これは「道具には神が宿る」という日本の伝統的な考え方や単に武術的に「気」を行き渡らせるというだけではないと思っています。
内観を通じて指の先にまで行き渡った「心」がさらに伸びて道具に伝わります。
「神経」や「気」という言葉ではなくやっぱり私的には「心」の方がしっくりきます。
本来無機質な道具に「心」が宿り自分自身となって稽古相手の道具に触れます。
無機質な道具同士のぶつかり合いではただの殺し合いの稽古になってしまいます。
道具に「心」を届かせて相手と触れ合うことが大切なんだと教えていただきました。
道具を単なる武器として捉えては楽しい稽古は出来ません。
いつも道具を介して相手と触れ合っているいう思いが大切です。
そんな思いがないと稽古相手もいなくなってしまうのだと。
「心」の通わない稽古は楽しくありません。
静稽会の稽古はどこまでも静かで楽しい稽古でありたいと思うのであります。
稽古が出来る環境があって、稽古相手がいてくれるというのは当たり前のことではなくて、特別なことなんだとしみじみ感じます。
WBCはメキシコに続いてアメリカとの名勝負を制した日本が優勝しました!
おめでとうございます!
選手たちも楽しかったはずです。
そして私たちも楽しませていただきました。
ありがとうございました!
先日、稽古終わりにみんなで昼食をとっていました。
ところがどうも後ろの席が騒がしい。
なんだか老人と若者?が揉めている模様。
老人「テメェ!なにチラチラみてんだ!」
若者「見てないですよ」
老人「さっきからオレの新聞を見てたじゃねえか!」
実はこの老人、四人掛けのテーブルに1人で座り、隣でニ人掛けのテーブルに座っている若者に文句を言っていたのですが、わざわざ若者の近くの側の席に座って新聞を広げて読んでいたんです。見た目は普通の老人です。
若者は不審に思って老人を見ていたんだろうと思います。
「テメェ!オレは70歳なんだぞ!表に出ろ!」
もう意味がわかりません。
そう言って老人は1人で店を出て行きました。
そんな時、一緒にいた静稽会のAさんがそっと店員さんに言いました。
「新手の無銭飲食かもしれない。お金を支払ってもらった方がいいですよ」
老人の剣幕に気を取られて、全く思いもつきませんでした。
なるほど!
確かにその可能性も排除出来ません。さすがはAさん!
ところが豈図らんや、老人は戻ってきました。そして警察を呼んだと言いながら相変わらず若者に絡みます。
やがて本当に警察官が来ました。しかも4人も。
老人は警察官にやれ防犯カメラを見てくれ、こいつが足を蹴ったなどと大声で怒鳴り散らしています。
2人は警察官に店の外に出されました。若者のテーブルにはまだ食べかけの食事がそのままです。
警察官の1人が戻ってきて私たちに事情聴取を始めました。
「目撃者」の私たちは事実を告げて店を出ましたが、外は雨が降っていました。
老人と若者と警察官たちのやり取りは雨の中でも簡単に終わりそうにありません。
トラブルに巻き込まれてしまった若者に同情しつつ私たちはその場を離れました。
それにしてもあの老人は何がしたかったのか?
おそらく孤独だったのだろうと推察する訳です。
孤独な老人の歪なコミュニケーションの取り方に背筋が寒くなります。
また孤独は精神疾患である妄想性障がいの原因になるそうです。
あの老人は既に病の域に入っていたのかもしれません。
孤独については静稽録に2018年6月10日「孤独と健康の関係」と2018年1月28日「孤独担当大臣」にも書きました。
あの老人に稽古相手がいたら、少しは変わっていたかもしれません。
エドウィン・ディアス投手は昨年5年約135億円で契約更新したメッツの大投手です。「プエルトリコの守護神」と言われているそうです。
そんなディアス選手が右膝蓋腱断裂してしまいました。
それもWBCの試合中ではなく勝利の歓喜の輪の中での負傷です。
全治8ヶ月。結構大きなケガです。
ニュースではチームメイトと抱き合いながら飛び上がって喜んでいた時に膝を痛めたとのことですが、そんな程度のことで?
ディアス選手はプロ中のプロですから体の鍛え方は尋常ではないはずです。
徹底的に鍛え上げた体がそんな簡単に壊れてしまうものか?
具体的にどんな状況だったのか?
どんなタイミングだったのか?
大変興味があります。
自分の体重に加えてチームメイトの体重が加わって膝に大きな負荷がかかった?
ディアス選手が飛びあがろうとしたタイミングで上からチームメイトの体重がかかった。いわばカウンターパンチのような力が膝にかかった?
もちろんこうした物理学的な要因はあるとは思いますが、やはり気持ちの部分が大きかったのではと感じてしまいます。
一般的に気が緩んだ時にケガをするケースは良くあります。
静稽会では10年以上真剣で稽古をしている人もいますが、稽古中のケガはほとんどありません。大きなケガは皆無です。むしろケガをするのは稽古が終わってからが多いように感じます。
真剣稽古中の緊張が解けて、話しながら刀の手入れをしている時に指先を切ってしまう・・・
登山も下山時に事故が多いと聞きます。
「勝って兜の緒を締めよ」とはよく言ったものです。
「るろうに剣心」の主人公緋村剣心の愛刀は「逆刃刀」ですが、その宿敵志々雄真実の愛刀「無限刃」が関鍛治によって再現されたそうです。
刃の部分をギザギザに仕上げてある刀はギザギザの凹凸の幅が0.75mmとなるように慎重に計測を繰り返したそうで、一カ所でも欠けたらダメになることから大変神経を使ったそうです。
そう言えば日本刀には切れ味を増すために「寝刃合わせ」という研ぎがあります。
「寝刃」とは切れない刀のことでそれを切れるようにすることを「寝刃合わせ」と言います。
砥石を刃先に荒く滑らせる研ぎを施します。
またヤクザ映画などで盛砂の中に刀を突き入れて刃を荒らすのも同じ考えです。ただこのやり方はどれほどの効果があったのかはわかりませんが・・・
いずれにしても刃がギザギザの方が切れるというのは意外な感じがしますが、刃の接地面が少ないほど接地面積に対する圧力が大きくなる訳ですから実は理にかなっています。
包丁の切れ味を確認するために刃に爪を当てて引っかかるかどうかを確認するのもそのためです。
でもこの「無限刃」は切れますかね?
大きなギザギザだとかえって引っかかり過ぎて逆に切れないのではと思ったりしますが・・・どうなんでしょう?
しかしあの刀で切られたらさぞかし痛いでしょうね〜
さらに「無限刃」は使う時に炎が出てましたね。そこは刃文で表現されているようです。
この「無限刃」は剣心の「逆刃刀・真打」と向き合うように3/30まで関鍛治伝承館に展示されているそうです。
WBCは中国、韓国と勝利して昨日はチェコ戦でした。
野球ど素人の私は前評判からすればさぞかし楽勝だろうと思ってました。
(チェコの皆さんごめんなさい!)
ところが対戦が始まって2回くらいまでは日本側が意外と苦しんでいました。
投手の球速に格段の差があるのになぜあんなに打てないのだろう?
野球ど素人の私には不思議でした。
単純に速い球よりも遅い球の方が打ちやすいはずだと思ってましたから。
しかし日本の打者はタイミングが合わずに苦労します。
解説者が日本の選手は140kmくらいが一番打ちやすい球速だと解説してました。
そんなものなのかあ・・・
確かに3回あたりから慣れた?せいか、段々と日本の選手も打てる様になってきました。
ただこれは野球というゲームの世界ですから、2回目以降があるので「修正」すれば打てる様になりますが、本来命のやり取りをする武術では2回目はありません。
1回目で死んでしまったり、致命傷を負ってしまえばもう「修正」の余地はありませんから。
武術でもチェコ戦の様なことはあるのだろうか?
そんなことを考えながら観てました。
メチャクチャに剣を振り回してくる素人は意外に強いとある有名な武術家の方が書いていたと記憶しています。
それは武術を習った人は「セオリー」に支配されてしまうからだと。
確かに稽古をしていると思いもかけない捌き方をする初心者もいたりして一瞬戸惑ったりすることがあります。
さらには武術における「はやさ」を考えさせられるなかなか興味深いチェコ戦でした。
結果は日本の大勝利となりました。
おめでとうございます!
「多分、花粉症、多分、花粉症、多分花粉症発症〜♪」
お笑い芸人やす子さんのラップに合わせたわけではありませんが、3月1日、そうです。まさにこの日です。多分ではなく完全に花粉症発症しました。
クシャミが止まらず
目が痒い
頭はボーッとしたまま
とめどなく流れ出る鼻水
ティッシュの大量使用
とうとう赤鼻のトナカイ(「肌うるる」ローションティッシュに変えました)
外出時のメガネ&マスク&帽子絶対着用
しかし花粉症でクシャミをした時に斬り込まれたら絶対に斬られる・・・
クシャミで不覚をとるわけにはいかぬ
花粉症対策最優先
そんな訳で花粉症対策第一弾はワセリン防衛軍出動!
鼻の穴、目のまわりにワセリン塗りまくり
これ、そこそこ効果あり。
もちろんマスク併用は欠かせませんが。
稽古が屋内で良かった〜と思う今日この頃です。
意外にも高名な武術家の先生の中には子どもの頃は「スポーツはダメだった」という方がいらっしゃいます。
本当なんでしょうか?
あんなすごい動きが出来るのだから、さぞかしスポーツも出来ただろうと思ったりしますが・・・
確かに一般的なスポーツと武術の違いは大きいと感じます。そもそも同じジャンルで比べることが間違っているのかもしれません。
発明家のエジソンは小学生の頃には教師から「too stupid to learn anything」と言われ続けたそうです。大人になってからも彼はいろいろと常識外れなことをやらかしてます。でもそれが発明家としての「能力」だと考えれば納得できます。
その人の「能力」がどこで活かされるかと言うのは重要です。活かす場を見つけられた人は幸せです。
また評価されていない「能力」の中には時代が変わると違った評価になるものがあります。
例えば昔はゲームが上手な「能力」などは今とは全く違う評価でした。
最近、テレビによく出るフワちゃんは芸人時代は全く評価されなかったそうです。しかしYouTuberとして成功しました。昔も今もやっていることはあまり変わっていません。
世の中には時代の評価が追いついていない「能力」を持った人がまだまだたくさんいるのではないかと思っています。
人事面談などで家柄やルックスで評価したといわれると不当に感じますが、「能力」で評価したと言われると途端に真っ当に感じてしまいます。
しかしその評価は一体いつの、どんな場の、どんな「能力」を評価しているのでしょうか?
静稽会のOさんは剣術稽古の時に遠間から大きく踏み出して、いきなり近間に入ってくるので、約束稽古が上手く成り立たないことがあります。
それはOさんの体が「約束」よりも相手を確実に「斬る」ことを無意識に優先しているからだと思っています。
政府軍抜刀隊で斬り合い(西南戦争)経験のある直神影流の隈元実道は
「我が鍔拳にて、敵の頭まを打割ると覚悟して、深く踏み込みたるとき、漸く(ようやく)我が切っ先、敵の眉間に達せんとす。」
と言ってます。
私はどんな場合でも無意識に間合いを詰めて斬ってくるOさんが実戦では一番恐ろしい相手だと思っています。
沢木耕太郎氏の9年ぶりの長編ノンフィクション作品「天路の旅人」を読了しました。
感じるところ多々あり。
久しぶりの一気読みでした。
自然が神に、人が仏に見える作品です。
西川一三氏は第二次大戦末期、25歳でラマ教の蒙古人巡礼僧「ロブサン・サンボー」に扮して「密偵」として中国大陸の奥深くまで潜入します。さらに戦争が終わった後もそのまま旅を続けてチベットからインド大陸まで足を伸ばします。インドで逮捕されて日本に送還されるまでの足掛け8年の旅。壮絶な記録です。
家畜の糞を燃料にし、ヤク(牛の仲間)が小便した後の濁った川の水を飲み、豪雨の中で横になって眠り、雪の降りしきる野外で眠り、夜は脚を腹に引きつけ、猫のように丸くなって寝る生活。
そして帰国後は打って変わって淡々とした静かな日々。
盛岡で美容室や理容室に用具や消耗品を卸す店を経営して一年364日働き、昼はいつもカップヌードルと握り飯二つ、夜は帰り道にある居酒屋でつまみもなく酒を二合。家に帰って夕飯を食すという普通の生活を続けます。
潜入直後に「国家なき民族の末路は現世の地獄」と言っていた西川氏。
しかし日本が戦争に負けて自分が国家を失おうとしている・・・
帰国後、西川氏の中にあった日本はもうない・・・
彼はずっと「旅人」として生きるしかない・・・と思ったのかもしれません。
ちょっと小野田寛郎氏を思い出しました。
本の中にはブッダガヤ、サルナート、ラージギル、ナーランダ、バラナシ、ルンビニ、アグラ、デリーといった地名が出てきます。
大昔、三度も足を運んだ遠いインドの記憶が懐かしく蘇りました。
西川氏は2008年2月に89歳で亡くなりました。直接の死因は肺炎だったそうです。
「我が身世にふるながめせしまに」
百人一首で有名な小野小町の歌の下の句です。
上の句は
「花の色はうつりにけりないたずらに」
花の色が時の経過とともに色褪せていく様を自分の美しさが衰えていくことに重ね合わせて、はかなさを詠んだ歌だと教わりました。
これを現代の女性歌人が詠んだとしたら周りはどんな反応をするでしょうか?
共感するでしょうか?
受け入れる人たちの感じ方が違うので、もしかしたら全く違う受け取り方をされてしまうかも知れません。
これは昔の映画やテレビドラマ、小説、落語などでも同じことがあります。
先日、テレビで昔の演歌を放映していました。その歌詞は今では完全にアウトだろうなあと思いつつ、昔はこの歌詞になんとも思わなかった自分がいたことを自覚しました。それは良い悪いという意識とは別次元でもう毛細血管にまで行き渡り、体に染み込んでいるのだと思います。
演歌だけではなく普通の歌謡曲でさえ今聞いたら驚くような歌詞が沢山ありました。
私はそんな時代を生きてきたのだとしみじみ思います。
またあるベテラン俳優さんがこんなことを語っていました。
殺し屋役でタバコをポイ捨てするシーンの時にディレクターから「あっ!それNGです」と言われたそうです。殺しそのものよりもタバコのポイ捨てが問題だと言うのです。
「じゃあどうすりゃいいのさ!」
ベテラン俳優の嘆きです。
寅さんの映画にも「放送上不適切なせりふがありますが、作者の意図を尊重してそのまま放送します」というテロップが表示されます。
そう言う時代なのかもしれません。
星飛雄馬が父一徹に平手打ちされてもなんとも思わなかった私が見ている世界はきっと若い人たちとは見えている世界が違うのだと思います。
少なくとも私と同じ時代を生きてきた人は自分だけは違うなんて思わない方がよいかもしれません。
体に染み付いたものはそんなに簡単には落とせませんから。
また簡単に落とせたとしたら、その人のそれまでの人生はなんだったのか?とも思ったりもします。
我が身世にふるながめせしまに
くわばらくわばら(笑)
静稽会は都内4ヶ所と千葉県市川市で稽古をしています。
中でも2011年の設立以来、最も長い「歴史」がある稽古場が市川稽古場です。
市川稽古は普段の稽古以外にやや実験的な稽古も行います。現行稽古形のブラッシュアップや他流稽古のトライアルなどいろんなことを試します。
トライアルを繰り返し紆余曲折を経て元に戻ったりすることもあります。
「な〜んだ」と思われるかもしれませんが、それは決して無駄なことではありません。そこに深い意味やより新しい動きの発見があったりするので、先々の稽古の見通しがつくレベルアップした動きにつながっていきます。
最近ではドラマや映画を2倍速、3倍速で観るなど「タイパ」重視の人も多いようですが、ゆっくり腰を据えて向き合い、じっくりと稽古を味わうのも良いものです。
もしかしたらこれが一番近道なのかもしれません。
達人が辿った道を教わったとしても結局それは他人が辿った道ですから。
そう言えば市川には創建が平安朝にまで遡る葛飾八幡宮という古い神社があります。宇多天皇の勅願によって京都の石清水八幡宮より勧進し、下総の国総鎮守として鎮守したのが始まりだそうです。
市川稽古はそんな歴史ある葛飾八幡宮に見守られています。
ちなみにこの神社には樹齢1200年の大きな千本公孫樹(せんぼんいちょう)や立派な随神門などもあります。
静稽会は1月15日に総会を実施しました。
コロナの影響で2021年、2022年の総会は実施出来なかったので久しぶりの総会です。
静稽会の総会は1年間の決算報告、活動の振り返りそして新年会が目的です。
今年こそはなんとか総会を実施したいと思っていました。
ただ諸般の事情で決算報告が間に合わない状況だったのですが・・・
Mさんのご尽力でなんとか決算報告ができました。
ありがとうございました!
そして新年会にはゲストの方々にもご参加頂きました。
翡縁会の多々良先生、広原さん、武術仲間の春原さん、いつもありがとうございます!
多々良先生が翡縁会HPに静稽会新年会のことを書いてくださいました。
(詳しくは下記の翡縁会HPブログをご覧下さい)
「稽古は健康にいいのか?」
これは新年会での春原さんの
「稽古は健康にいいって言うけど、実際は稽古が体にいいんじゃなくて、年齢がいくと稽古をするためは体調を整えなくてはならなくなる。だから結果的に健康にいいってことなんだよね。」
との言葉を受けたものです。
私も彼の言葉に共感しました。
武術稽古は本来は非日常に備えるものですが、日常に取り込めれば健康に良いものになるはずです。
ただ稽古が非日常のままではおそらく健康に資することにはならないでしょう。
静稽会新年会に集まった方々は日常の中に稽古を取り込んでいる方々なんだと思います。
老化が日常になりつつある私にとって稽古は日常の大事です。
NO 稽古 NO LIFE
自転車もヨガも坐禅も読書も映画、落語、美術鑑賞、そして稽古も大事な日常です。
<翡縁会ブログ>
https://hien-kai.blog.jp/archives/18654320.html?utm_source=blogreaderoa
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
初夢は一年の吉兆を占うと言われています。
私の初夢は刀をいただきました。
それも田村正和の遺刀・・・というか「眠狂四郎」の刀
なぜ私になのかは不明。
なにしろ夢ですから。
「眠狂四郎」(柴田錬三郎原作)は転びバテレン(宣教師)と大目付の娘の間に生まれたハーフという設定です。
眠狂四郎の愛刀は豊臣秀頼の遺品とされる妖刀「無想正宗」
(もちろん架空です)
どんな刀なのか?は良くわかりませんが想像すると・・・
正宗というからには沸出来?
刃文は大乱れか濤乱か?
反り浅く、長寸、身幅は広い?
美濃伝と相州伝の特徴を兼ね備えていることや豊臣家の遺品ということも踏まえると刀の設定は妖刀村正の方が良いような気もしますが・・・
号も「夢想村正」とか?
眠狂四郎だけに敵が眠くなる刀だとバッチリです。
眠くなる刀?・・・眠そうな刀
刀業界では「眠そうな刀」というのは刃文の境目の匂口がハッキリしない刀のことです。あまり良い意味では使われません。
匂口がハッキリしているということは焼きの入っている部分と入ってない部分がはっきり分かれているということなので、昔から「眠そうな刀」の方が硬度と靱性の変化が急激でないため衝撃に強いと言われています。よって戦闘刀には適しているのだと。
夢の中の眠狂四郎の刀はもしかしたら「眠そうな刀」だったのかもしれません。
いや「寝夢想な刀」(笑)
その刀で斬りまくった眠狂四郎。
使う必殺技は「円月殺法」
確かに「満月殺法」じゃあサマにならない。
眠狂四郎を演じるのは
市川雷蔵か?
田村正和か?
好みの分かれるところです。
どちらも歌舞伎に縁のある人ですけどね〜
個人的にはやはり市川雷蔵かな・・・
あっ!刀をいただいたのは田村正和の方でした。ごめんなさい!
ちなみに刀をいただく夢の吉兆はどうなのか?
調べてみました。
「刀をもらう夢はあなたに様々なよい出来事が訪れる大吉夢です」
だそうです。
「特にもらった刀が金色や白色に光り輝いていたり、見るからに立派な刀であった場合は、その意味合いが更に強くなります」
刀を抜かなかったので色はわかりませんでした。
刀装具等はごく普通の刀だったような気がします。
それでも大吉夢ということで・・・
本年も必ず良いことがあると信じています。
12月25日で2022年最後の稽古が無事に終了しました。
まだまだコロナ不安の中ではありますが、楽しく稽古できたことは何よりでした。
静稽会は2011年1月1日に設立されました。
2022年12月31日で満12年。来年は13年目になります。
この12年間にいろんなことがありました。
設立直後の2011年3月11日に東日本大震災が起きました。
稽古をしていた施設は全て閉鎖になりました。
そんな中、Aさんのご厚意で会社の倉庫をお借りすることが出来ました。またOさんが畳を揃えてくれて稽古ごとに畳を敷いてなんとか稽古を続けることが出来ました。本当にありがたかったです。
2020年からしばらくはコロナ禍でこちらも稽古施設がほとんど閉鎖しました。東日本大震災とは異なり、感染リスクがあることから施設の問題だけではなく、人が集うこと自体が出来なくなったことで稽古は一時期ほぼ壊滅的な状態になりました。それでも感染リスクに最大の注意を払いながら、開いている施設で散発的ではありましたが稽古を継続しました。
いろいろな武術団体の方の話を聞くと、特に高齢者が多い会はそのまま団体自体が解散になってしまったところも多かったようです。所属していた人たちは稽古が出来ないまま体力の衰えが進み、コロナ禍がおさまった後でも稽古をする場所も体力も無くなってしまったとこぼしていました。
「年をとると体は自分が思っている以上に早く衰えることを知りました。でもすでに後の祭りです」
コロナ前には重い刀を自由自在に操っていた方の言葉です。
お陰様で静稽会は稽古再開後には全会員が稽古復帰することが出来ました。
稽古の拠点があるということはありがたいことです。また稽古相手がいるということはありがたいことです。
二つの大きな困難を経てそのことが身に染みました。
稽古が出来る環境に感謝しつつ、来年も楽しく、静かに稽古を続けていきたいと思っています。
なにとぞご支援、ご協力よろしくお願いします。
良いお年を!
私が稽古に使う差し料は全て直刃です。
「直刃が好きなんですよ」
なんて言うとなんだか勘違いをしてしまう人もいるようで
「この人は真っ直ぐな心の持ち主なの?」
なんて・・・ことはありません(笑)
それに実は直刃の刃文は真っ直ぐではありません。
刀は立てて眺めるのが普通ですが、私の刀は横に倒して眺めます。
直刃は刀の反りに合わせて緩やかに弧を描いています。
その様が水平線に見えて何となく穏やかな気持ちになれます。
昔、丘の上から見た懐かしい水平線が蘇ります。
地鉄の鍛え肌は波濤に見えてきます。
鎬を超えて溢れ出てこないように樋は引いてません。
海は広いな♪ 大きいな♪
月がのぼるし♪ 日は沈む♪
海は大波♪ 青い波♪
ゆれてどこまで続くやら♪
そして夜になると水平線の上には星雲たちが現れて光を放ちます。
刀の中に宇宙があってもいいじゃあないか!(岡本太郎風)
水平線は本来「水平」のはずなのに鳥瞰の水平線はなぜか緩やかな弧を描いているように見える不思議。
直刃なのに直線ではなく曲線になる不思議。
刀の中には森羅万象が存在してます。
やっぱり刀はいいなあ
もしかしたら頭の片隅で昔に読んだ以下の文章が直刃をさらに後押ししているかもしれません。
「焼き巾の広い華やかな、そして焼き刃の硬い刀、これは昔からいわれているごとく戦陣には禁物と思われる。」
「細直刃(ほそすぐは)中直刃(なかすぐは)、その他一たいに焼き巾がせまく、そのうえ匂(におい)出来のもの、世間でよくいう焼きの甘そうな刀、ねむそうだといわれる刀には刃こぼれは少なく、しかもよく切れるものがある。そうした点では古刀は断然よい。新刀でも肥前刀あたりには、その規格があてはまったものがある。」
成瀬関次著『実戦刀譚』
昭和16年に書かれた書物です。
昔、戦場には家にあった古い刀を作り直して軍刀として持って行った人たちも多かったと聞いています。そんな日本刀(軍刀)の修理の記録と考察が中心に書かれています。
軍刀の戦果は修理に来た本人又は代理人の話や自慢話、部隊での伝聞なので、話が過大になる事を前提に読む必要があります。
さらに時代背景から、軍刀の戦果は戦意昂揚にも使われる内容だという事も考慮する必要があるかもしれません。
それでもそんな文章に引っ張られて私の差し料は肥前刀の直刃というわけです。
もしかしたら私は直刃のように素直なのかもしれません。
年の瀬になると「一年を振り返る」と言いますが、最近では年のせいか振り返っても思い出せない・・・(笑)
「大人になるとあっという間に一年が過ぎるのはなぜ?」
以前、「チコちゃんに叱られる」でやってました。
チコちゃんの答えは
「人生にトキメキがなくなったから〜」
時間の感じ方は心がどれくらい動いているかが重要らしいです。
確かに「トキメキ」や「ドキドキ」を忘れてしまった大人たちの一年はあっという間に過ぎてしまうのかもしれません。
先日、翡縁会の方々がブログに「年末発表会」の感想を書かれていました。
これらがそれぞれとても良くて心を動かされました。
今年10月に静稽会は一般の方々の前で演武しました。
そこに至るまでの日々、その後の思いなどがそのブログに書かれたことと重なりました。
中でも
「そう、これが私の現在地」
私が言いたかったことを一言で言い表してくれました。
「現在地」を知ってこそ、これから踏み出す方向も決まります。
おそらくただ単に「年末発表会」の感想を読んだだけではこれほど心を動かされることはなかったのではないかと思います。
やはり自身の中に火種が無いとどんなに火薬を入れてもスパークは起きません。
翡縁会の方々の心躍る様子が伝わってくる言葉に羨ましさを感じつつ・・・
果たしてこの一年で私はどれほどの「トキメキ」を感じられたか?
「ドキドキ」する時間を過ごせたか?
果たしてどれだけの時間を生きたか?
しっかり振り返りたいと思います。
私のお墓の前で泣かないでください〜♪
「千の風になって」を歌うテノール歌手の秋川雅史さんは彫刻家としても有名です。
その秋川さんは歌の練習はテレビを見ながらやるそうです。
私はてっきりプロ歌手の方は静かなところで集中して練習するものだと思っていました。
秋川さんはこの方が良い練習が出来ると言います。
また彫刻も歌を歌いながら適当にやるとバランスの良い像が彫れるそうです。
例えば手ばかり気にしていると手が全体に比して小さくなってしまうそうで、気を全体に散らしながらやると良いものが出来ると言います。
居合でも例えば歩き方ばかりに気をとらわれると動きがロボットの様になってしまうことがあります。
細かなところまで神経を行き渡らせることは大切ですが、そればかりに集中していると「イップス」に陥る可能性もあります。
それまでスムーズに出来ていたことが突然出来なくなる「イップス」。
「階段イップス」が有名です。
ある日突然、リズミカルに階段を降りられなくなります。
段差を意識し過ぎて降りようとするとぎこちなくなったり、手すりがないと降りられなくなったりします。
私も以前、足元を見ながら長い階段をリズミカルに降りていた時に突然、足をどう出したら良いかわからなくなって落ちそうになったことがあります。
ああこれが「階段イップス」かと思いました。体験した人は結構いるかもしれません。
稽古でもあまり意識を一箇所に集中し過ぎるのも考えものです。
長いことコロナなどの影響で出来なかった静稽会試斬会が先日ようやく実施されました。
いつもながら思うことですが、刀はなかなか自分の思う様にはなりません。
歌舞伎に「梶原平三誉石切(かじわらへいぞうほまれのいしきり)」通称「石切梶原」という演目があります。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の中で歌舞伎役者中村獅童さんが演じた梶原景時にまつわる刀の目利き、試し斬りの物語です。
景時が鶴岡八幡宮の大きな石の手水鉢を真っ二つにするシーンが見せ場です。
「鎌倉殿の13人」では景時のこんなセリフがありました。
「刀は斬り手によって名刀にも鈍(なまくら)にもなる」
「なまくら」とは切れ味の悪い刀なのことです。
ドラマ的には意味深なセリフですね。
「石切梶原」のように元々の試斬(試し斬り)というのは刀がどれほどの切れ味があるかを試すことを言います。
静稽会の試斬会で試されるのは刀ではなく斬り手です。
技術だけではなく斬り手の心も試されます。
単なる刃筋の確認ではなく心を磨く稽古と考えています。
「石切梶原」の景時は一体、何を斬り、何を斬らなかったのか?
景時にとっての「名刀」とは?
そんな目で歌舞伎「石切梶原」を観ると面白いかもしれません。
静稽会試斬会もなんでも斬れば良いということにはなりません。